伊藤悌三伊藤 悌三(いとうていぞう、1907年12月14日 - 1998年9月29日)は、日本の洋画家。 略歴千住吾妻汽船会社(隅田川の一銭蒸気船)を経営の父幸太郎と、写真家江崎礼二の長女八重の三男として浅草山ノ宿町53番地で生まれる。独協中学校の時に画家を志し、1927年(昭和2年)岡田三郎助に師事。1929年(昭和4年)東京美術学校西洋画科に入学。 在学時の1933年(昭和8年)の第14回帝展に初入選し、以後毎年入選。 1941年(昭和16年)の第4回新文展には「少憩」を出品し、この年から制定された岡田賞を受賞した[1]。翌年無鑑査となる。1941年(昭和16年)、紀元二千六百年にあたり興亜院より中国各地を取材。翌年陸軍報道部より南方各地に派遣作品を制作。 戦後は、日展・光風会で活動、浅井閑右衛門、南政善らと新樹会を創立するも、1952年(昭和27年)以後団体を退き、無所属作家として個展で発表する。師である岡田三郎助の影響を受け人物画家と自負、裸婦の他、1972年(昭和47年)以後は毎年渡欧し、スペインの女性を多く描いた。 1998年(平成10年)9月没 90歳 長男は伊藤萌木(日展工芸作家)、次男は伊藤亜人(東京大学名誉教授、文化人類学)、三男は伊藤卓美(木版画家) 著書
挿絵
脚注
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