今治ラヂウム温泉
今治ラヂウム温泉(いまばりラヂウムおんせん)は、愛媛県今治市にある公衆浴場施設。施設の本館(オリジナル建築)が国の登録有形文化財に登録されている[3]。 2014年(平成26年)3月末より浴場は休業、現在は閉館となっている。 歴史
瀬戸内海の大島出身の実業家・村上寛造(むらかみ かんぞう)[注 2]が設立。 村上は1919年(大正8年)「共楽館」の名称で、常設映画館と「ラヂウム温泉」を設立創業[1][2][注 1]して、1923年(大正12年)頃までには一帯に「京町歓楽街」[注 3]を形成[4][5][6][7]。京町一帯(現在の共栄町3丁目、4丁目)の土地開発と店舗住宅の建設を進め、1924年(大正13年)「京町住宅株式会社」を設立。さらに1933年(昭和8年)常設映画館「第二共楽館」を開設。 1920年(大正9年)の今治市地方都市誕生[注 4]に併せて、町の中心に歓楽街をつくるため、娯楽の場として地域のシンボルかつ象徴的なランドマークが誕生する。
この辺りで頑丈な鉄筋コンクリート造の建物は当時珍しく、太平洋戦争期の1942年(昭和17年)頃には越智郡郷土防衛隊の本部が設置される[4][5][8][注 5]。1945年(昭和20年)の今治空襲では市内の8割が焼失したが、奇跡的に戦火を免れ[4][5][6][8][9][注 6]、空襲直後は病院や銀行などが集まる地域インフラの拠点(2階大ホール部分)となる[6][8]。
1951年(昭和26年)「株式会社ラヂウム温泉」を設立。1967年(昭和42年)に建物の3階部分を増築し、「ホテル青雲閣」を開業[5]。さらに1988年(昭和63年)、サウナ風呂やスチームバスなど13種類の様々な風呂を取り入れた近代型銭湯に改築する[11][12]。 2014年(平成26年)3月末、浴場を休業[4][9][11][13]。約2年半後の2016年(平成28年)11月29日に国の登録有形文化財に登録され[3]、以降も建物はそのままの姿で残されている。 建物・内装の特徴1919年(大正8年)建造、鉄筋コンクリート造の本体中央に多角形を重ねた塔を持ち、背面には2つの白いドームを配し、中央にレンガの煙突が立つ。建築当初は映画館やダンスホールなどを備えた娯楽場であった[14]。当初の建物(オリジナル建築)は三角屋根の3階部分がなく、鉄筋コンクリート造の2階建て(建物上部には下記の塔屋があり)であった[3]。背後の八角形ドームは男女浴室(計2つ)となっており、建物上部には五角形と六角形の平面を重ねた塔屋があるなど独特な形状の意匠が随所に見られる[8][11][15]。建物内部は、柱や幅木などのモルタル壁面に「マーブル技法」という大理石様の左官仕上げが施されており[注 7]、2階ホールにある階段入口[注 8]や脱衣場の壁面などで確認できる[4][5][7]。 設計など建築に関する当時の資料が乏しいこともあり、建築家などの詳細は現状では明らかになっていない。一部ではオランダ近代建築の父・ベルラーヘの建築手法との類似性が指摘されている[5][7][注 9]。 1967年(昭和42年)には三角屋根の建物3階部分を増築[注 10]。さらに1988年(昭和63年)には前述のとおり近代型銭湯として改築された[11][12]。この時に浴場玄関付近の構造(外壁の位置含む)が昔ながらの番台からフロント式に変更となった[7]。 当施設の設立時期については閉館後に発見された様々な資料により明らかになっているものの、建築家に関する情報や建物の構造など一部未解明の部分が残されているため、今後も新たな資料の発見と知見、それらを基にした研究の進展が待たれている[5][16]。
※イベント開催時(2017年8月) 併設施設
2階部分(大ホール)は当初、演劇や演芸、ダンスホールなど娯楽の場として利用されていたが、戦中は郷土防衛隊の本部、空襲直後は病院や銀行などが集まる地域インフラの拠点となる。平成に入るとクラシックバレエ教室として使用されていた(同教室は浴場の休業後も2016年夏まで継続)[4][6]。
1967年(昭和42年)に増築された3階部分には宿泊施設として「ホテル青雲閣」を開設、現在は浴場と同じく休業中である[9][13]。 最新情報建物公開の見学イベント等を期間限定で開催。最新情報やイベントの告知などは公式フェイスブックおよび公式サイトを参照のこと。
所在地愛媛県今治市共栄町4丁目2番9号 交通ギャラリー現在は閉館のため、見学会などの建物公開時を除き非公開としている。
※イベント開催時(2017年8月) 脚注注釈
出典
参考資料・文献
関連項目外部リンク
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