京極高厚
京極 高厚(きょうごく たかあつ)は、但馬国豊岡藩の第9代(最後)の藩主。豊岡藩京極家11代。 略歴文政12年(1829年)5月29日、第8代藩主・京極高行の長男として江戸麹町邸で生まれる。弘化4年(1847年)、父の死去により家督を継ぎ、同時に従五位下、飛騨守に叙任する。嘉永2年(1849年)、駿府加番となり、嘉永4年(1851年)に大坂加番になった。なお、翌年の嘉永5年(1852年)7月まで、泊園書院(現・ 関西大学)の藤沢東畡を大坂城に招き、『論語』の講義を受けた[2]。 文久2年(1862年)、幕末の海防政策として、津居山港に御台場を築き、11インチ砲や10貫砲を備えた。文久3年(1863年)の生野の変では幕府方として活躍し、平野国臣や横田友次郎らを逮捕するという功績を挙げている。 明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により豊岡藩知事となる。 明治3年(1870年)、藩校の稽古堂を女学校に改めて、藩士子女の教育化に努めた[3]。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により知藩事を廃されて東京へ移った。明治17年(1884年)、華族令によって子爵となる。明治18年(1885年)に正五位に叙され、その後も従三位、勲四等に叙された。明治30年(1897年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[4]、明治37年(1904年)7月9日まで在任した[1]。 明治38年(1905年)12月27日、東京本所邸にて死去した。享年77。 俳人としても優れていたと言われている。 系譜子女は2男2女
脚注
参考文献
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