交野 政邁(かたの まさゆき、1893年(明治26年)7月3日[1] - 1966年(昭和41年)6月14日[1][2])は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・内藤[1]。青年期には陸上競技やスケートでスポーツ界に足跡を残し、のちにスケート団体の会長を務めている。
経歴
旧日向延岡藩主・内藤政挙の息子として生まれる[1][3]。堂上(公家)華族の交野家の養子に迎えられ、先代・交野時正の隠居に伴い家督を継承し、1918年(大正7年)3月11日、子爵を襲爵した[1][3][4]。
1921年(大正10年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業[3][5]。松坂屋取締役[注釈 1]、朝日興業取締役、名陶チャイナ・コーポレーション社長、大同メタル工業監査役などを務めた[2][3]。
1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[7][8]、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。
1966年(昭和41年)6月14日、肺癌のため山王病院で死去[9]。
スポーツ人として
学習院高等科在学中[10]には、1913年(大正2年)に始まったばかりの日本陸上競技選手権大会を走高跳で2連覇する成績(当時の日本記録でもあった[11])を残している[12]。
京都帝国大学在学中にはスケート界で活躍し[13]、1920年には河久保子朗らとともに日本初のフィギュアスケート研究団体である「日本スケート会」を結成した[14][注釈 2]。1929年(昭和4年)に大日本スケート競技連盟(現在の日本スケート連盟)が発足すると、会長を務めた[13]。
親族
脚注
注釈
- ^ 松坂屋取締役就任は1925年(大正14年)。この年には「株式会社いとう呉服店」が会社名を「株式会社松坂屋」に改め、全店舗の名称も「松坂屋」に統一するなどの改革を進めていた。末田智樹(2014年)は、経営陣を整える一環として華族の交野が招かれたものと記す。夫人は松坂屋社長の伊藤祐民(15代次郎左衛門)の娘である。
- ^ 『日本大百科全書(ニッポニカ)』では「交野政邁」に「こうの せいまい」と振り仮名を付している。
出典
参考文献
- 日本スポーツ協会編『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年。
- 人事興信所編『人事興信録』第14版 上、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 末田智樹「大正後期株式会社いとう呉服店の経営拡大と催事展開―大阪店再開と銀座店開設と松坂屋誕生―」『人文学部研究論集』第31号、中部大学人文学部、2014年。 NAID 120006520248。
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