井上羽城井上 羽城(いのうえ うじょう、1871年3月29日〈明治4年2月9日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月30日)は、福井県出身の歌人、新聞記者。本名は井上 一(いのうえ はじめ)[1]。号は羽城のほか、経足、風露郎、紅蓮などを用いた[2]。 生涯1871年(明治4年)2月9日、福井県福井市に井上一庵・起怒の長男として生まれる[3]。家業であった医者を継ぐために金沢高等医学専門学校に入学したが、文学への道を志望し、1892年(明治25年)春に上京し、落合直文の門下に入る[3]。大八洲学校に入学し、落合直文と久米幹文から国文を学ぶ。在学中に金子元臣や品田太吉を助け、雑誌『歌学』や『分海』の編集に当たる[3]。1893年(明治26年)、浅香社の創立に加わる[4]。 東京自由新聞、福島民報などに勤めた後、1897年(明治30年)、徳島新報社に招聘され入社する[5]。1898年(明治31年)に設立された徳島毎日新聞社に入社し、編集局長となる[5]。1941年(昭和16年)12月15日、新聞統制で徳島毎日新聞・徳島日日新聞が合併されて徳島新聞が創刊され、主筆・取締役となる[6]。派閥抗争によって両社出身の幹部が総辞職することとなり、1942年(昭和17年)10月に退社する[6]。戦後、前川静夫主宰により社賓として迎え入れられ時評を執筆するも、戦時中に主筆を務めていたことから言論追放となる。1949年(昭和22年)9月30日、追放解除の日を迎える前に病没する[6]。 人物
石碑・展示等
著作
脚注参考文献
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