二条定高
二条 定高(にじょう さだたか)は、鎌倉時代前期の公卿。藤原北家勧修寺流九条家、参議・九条光長の子。官位は正二位、権中納言、按察使。二条東洞院に邸宅を有していたため「二条」と称される。 経歴建久9年(1198年)土御門天皇の即位に伴って六位蔵人に補せられ、まもなく従五位下に叙爵する。建仁2年(1202年)遠江守に任ぜられると、伊賀守・越後守・肥前守と地方官を歴任し、この間建仁4年(1204年)従五位上、建永2年(1207年)正五位下と昇進した。 承元3年(1209年)兄・海住山長房の参議辞任による譲りを受けて右少弁に抜擢されると、同年に正五位上・左少弁、建暦元年(1211年)従四位下・左中弁、建保元年(1213年)従四位上と弁官を務めながら順調に昇進し、建保2年(1214年)に右大弁兼蔵人頭に任ぜられた。また同年には安房国を知行国として与えられている。 建保6年(1218年)参議兼左大弁に任じられ公卿に列すと、承久元年(1219年)従三位、翌承久2年(1220年)には上席の参議であった藤原定家・藤原経通・中山忠定を超えて権中納言に昇った。 従四位下の位階を譲られるほど葉室宗行と親しかったが、承久3年(1221年)に発生した承久の乱において、定高は兄・長房と共に後鳥羽上皇の挙兵に反対する立場に回り、宗行と運命を分けた。九条道家からの信頼が厚く、承久の乱後にはその政治顧問の最上位を占めて平経高らと道家を支えた。鎌倉幕府からは好意的に見られ、関東申次であった道家の下で実際の幕府との交渉を行っていたのは全て定高であったとされている。また、斎宮であった後鳥羽上皇の皇女・凞子内親王を深草の別邸で引き取ったことでも知られている。貞永元年(1232年)正二位に昇るが権中納言を辞任、嘉禎2年(1236年)按察使に任ぜられる。 暦仁元年(1238年)正月21日に病のために出家、翌22日薨去。享年49。 官歴『公卿補任』による。
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