久保和夫久保 和夫(くぼ かずお、1939年5月6日 - )は、元2輪ライダー、元チューナー。2輪の強豪チームだった城北ライダースに所属し、1950年代から1960年代に日本最強のモトクロスライダーと言われ、1965年に日本人として初めてモトクロス世界GPに出場した。引退後に日産系のチューニング会社である東名自動車の設立者のひとりになり、さらにスズキ系のチューナーやサプライヤーとしてSRSクボを設立。東京都板橋区出身。 2輪ライダー時代東京都板橋区で大谷口モーターという名で自動車修理業(モータース)を営んでいた父(久保正一)の3男として生まれ、二人の兄(靖夫、寿夫)と共に2輪に親しんでいく。大谷口モーターには、鈴木誠一、松内弘之といった2輪好きが集まっていた。 1956年に埼玉県で開催された2輪スクランブルレース[1]にヤマハYC-1でデビュー。200ccクラスで2位に入賞[2] 1958年前後、仲間と共に城北ライダースクラブ(JRC)を結成[3]。 以後、国内モトクロスで無敵に近い活躍を見せ、日本最強と呼ばれた。また同じく強豪ライダーだった荒井市次や三吉一行と共にモトクロス三羽ガラスと称された。モトクロスだけではなくロードレースにも出場し、マレーシアなどの海外レースにも出場した。次兄の久保寿夫もライダーとして活躍。長兄の久保靖夫はメカニックやマネージャーとして活動した。[4] 城北ライダースは当初はヤマハのサポートを受けたが、クラブの技術力と結束力が評価され、1960年からスズキと契約[5]。主として国内モトクロスに出場し、常に好成績を収めた。[6] 1965年にはスズキワークスライダーとして、日本人として初めてモトクロス世界選手権(モトクロス世界GP)に出場。1966年もモトクロス世界選手権に出場する[7]が、マシンの性能などが十分ではなく好成績は残していない。[6] 1964年には4輪レースにも出場。第2回日本グランプリT-1クラスでスズキ・スズライトに乗り8位、第3回ナショナルストックカーレースで日産・フェアレディ1500(SP310)で4位などの成績を残している。 チューナー時代1968年に、当時ではまだ珍しいチューニングショップ東名自動車(現・東名パワード)を、元城北ライダースの仲間とともに神奈川県川崎市に開業。セドリックやフェアレディ2000などのチューニングを行う。東名自動車には鈴木誠一や、久保の長兄の久保靖夫も参加したが、次兄の久保寿夫は参加していない。[6] 1972年にスズキ系チューナー・サプライヤーとしてSRSクボを設立。FL500用のスズキ製エンジン(スズキ・フロンテ用がベース)のチューニングやパーツ供給を行う。[8] FL500が下火になってきた時期に、スズキの依頼により2輪レーシングマシンであるスズキ・RGB500の国内ディストリビューターになり、販売やメンテナンスを行う。伊藤巧(スズキ契約ライダー。1987年の日本GP500ccクラスで3位)は久保のチームからレースに出場していた。[6] 1980年代半ばには、スズキ系の2輪販売店としてSBS多摩をオープン(現在は閉店)。スズキから依頼され、2輪レーシングチームチームSRSクボを設立し、加賀山就臣や亀谷長純などのライダーを育成する。[6] 現在は悠々自適の日々だという。[6] エピソード
脚注
関連項目外部リンク |