丸山芳介

丸山 芳介
生年月日 1855年6月12日
出生地 陸奥国若松
没年月日 (1922-10-11) 1922年10月11日(67歳没)
出身校 藩校日新館
前職 実業家
所属政党 立憲国民党公友倶楽部(無所属団)、公正会
称号 勲四等

在任期間 1915年3月 - 1917年1月
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丸山 芳介(まるやま よしすけ[1]1855年6月12日安政2年4月28日[2] - 1922年大正11年)10月11日)は、日本武士会津藩藩士)、実業家政治家である。戊辰戦争を戦ったのち、土木請負業を営む実業家となり、姫路において各種事業に関わる。姫路市商業会会長、衆議院議員一期。

生涯

少年藩士から実業家

会津藩藩士の丸山家に次男として生まれる。父は丸山玄斎[* 1]日新館に学び、会津戦争では会津若松城に籠城して戦った。池上三郎南清は戦友である[3][* 2]。戦後に上京し南摩綱紀門下となったのち、北海道で開拓に従事する。ここで島田組幹部大三輪長兵衛に知られ、その帰郷に従って同社に入社したものの、ほどなく同社は倒産し、苦渋の時代が続いた。土木請負事業を志していた丸山にとって、転機は山陽鉄道技監となっていた南清との再会であった。丸山は山陽鉄道の土木工事請負を契機に、播但鉄道南海鉄道阪鶴鉄道の土木工事を成功させた。事業は関西方面にとどまらず、北海道でも函樽鉄道の土木工事を請負っている[4][3][5]

姫路時代

姫路商業会会長

丸山は1892年明治25年)から姫路に居住した[5]日露戦争において留守第十師団長(姫路)を務めた柴野義広は、大塚武臣(姫路市長)に製革事業を勧める。この背景には姫路がかつて革細工の産地であったこと、捕虜に製革技術に通じたものがいたこと、日本製軍靴の品質に問題があったことなどが挙げられる[3]。丸山はこの事業を引き受け、捕虜[* 3]を雇い入れて姫路製革所を開いた。製革所は日英博覧会名誉金牌、世界博覧会最高賞を受賞するなど高品質な革製品を産み出した。伊藤長次郎川西清兵衛などの出資を受けて事業規模を拡大し、当初の製革所は山陽皮革となり[3]、川西が社長に就任し[6]、丸山は常務として経営にあたった。この他播磨水力電気(監査役)、山陽水力電気(監査役)、姫路海産物青物定市場(社長)[3]、姫路信用組合(現姫路信用金庫)の設立に携わり、姫路倉庫、姫路米穀取引所などの役員を勤める[5]1911年(明治44年)には姫路商業会を設立し、会長に就任した。

政治家

1906年(明治39年)に姫路市会議員となり、次いで兵庫県会議員に選出される。丸山の所属政党は立憲国民党で、党兵庫県支部幹事のほか、郡部会副議長、同議長を歴任した。 1915年(大正4年)の総選挙に姫路市から立候補し、長田秋濤砂川雄峻[* 4]を破って当選[3]。帝国議会では精算委員、特産法制定委員であった。 第三十七回帝国議会では公友倶楽部の結成に加わり、常任幹事を務める[* 5]勲四等の叙勲を受けているが、これは第一次世界大戦での貢献を認められたためである[2]

人材育成

丸山は所縁の地の後進育成に私財を投じている。姫路高等女学校姫路商業の創立にあたっては当局と折衝を行い、開校に貢献。また土地、金品を寄付している[3]会津会会員、稚松会賛助員でもあり、丸山の援助で大学を卒業した同郷人もいた[3]

脚注

注釈
  1. ^ 『人事興信録』(第六版)では丸山玄秋。
  2. ^ 護衛隊に属した高木盛之輔の『会津籠城中護衛隊記』には隊員として池上三郎、丸山千代吉の名がある。
  3. ^ 留守第十師団参謀長小原正恒によれば、この捕虜は戦後も日本に留まっている(長谷川伸『日本捕虜志』長谷川家蔵版、1955年)。
  4. ^ 大阪弁護士会会長などを務めた弁護士。
  5. ^ 『姫路百紳士』では「交友倶楽部」となっているが、同団体は貴族院の会派であり、結成時期も整合しない。
出典
  1. ^ 『兵庫県人物事典 下』「丸山芳介」
  2. ^ a b 『人事興信録』(第五版)「丸山芳介」
  3. ^ a b c d e f g h 『姫路百紳士』「丸山芳介」
  4. ^ 函館市立中央図書館 函館市史デジタル版”. 2014年4月7日閲覧。
  5. ^ a b c 『会津会会報第二十一号』「丸山芳介氏の逝去」
  6. ^ 株式会社山陽”. 2014年4月7日閲覧。

参考文献

  • 会津会『会津会会報第二十一号』、1922年。
  • 『兵庫県人物事典 下』のじきく文庫、1968年。
  • 神田爾郎『姫路百紳士』、1916年。
  • 『人事興信録』(第五版、第六版)
  • 衆議院事務局『衆議院要覧 下巻』、1915年。
  • 田住豊四郎編『現代兵庫県人物史』県友社、1911年。

外部リンク