柴野義広柴野 義広(しばの よしひろ、1846年11月30日(弘化3年10月12日[1]) - 1924年(大正13年)7月1日[2])は、幕末の加賀藩士、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲一等功四級[3]。 経歴加賀藩士[3]。のちの石川県出身[2][4]。柴野忠盛の長男[1]。1868年(明治元年)戊辰戦争では加賀藩3番小隊に属し各地を転戦した[3]。1871年(明治4年)12月、陸軍少尉として出仕し、砲兵中隊長、大隊長を経て[3]、1888年(明治21年)6月、野砲兵第3連隊長に補され、1890年(明治23年)11月、陸軍砲兵大佐に進む[4]。日清戦争では連隊長として出征し海城の攻防戦で苦戦した[2]。 ついで野戦砲兵監を経て、1897年(明治30年)4月、陸軍少将に進級[4]。1902年(明治35年)5月、陸軍中将に進級と同時に予備役に編入し、1904年(明治37年)4月、留守第10師団長を経て、1906年(明治39年)3月、後備役に編入し[2][4]、1909年(明治42年)4月、退役した[3]。墓所は多磨霊園(12-1-12)。 脚注参考文献
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