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中院通教
凡例
中院通教
時代
鎌倉時代
中期
生誕
寛元
4年(
1246年
)
死没
不明
別名
中院
官位
正二位
・
権中納言
主君
後嵯峨上皇
→
後深草天皇
→
亀山天皇
→
後宇多天皇
氏族
村上源氏
中院家
父母
父:
中院通成
、母:
宇都宮頼綱
娘
兄弟
通頼
、
通教
、禅助、顕子、房子、
三条実重
正室
養兄弟:
大炊御門冬忠
室
?
妻
三条公俊
娘・中納言典侍、
高倉清俊
娘
子
通藤
、
通冬
[
1
]
テンプレートを表示
中院 通教
(なかのいん みちのり)は、
鎌倉時代
中期の
公卿
。
内大臣
・
中院通成
の二男。
官位
は
正二位
・
権中納言
。
官歴
以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
宝治
2年(
1248年
)1月6日:
叙爵
。
建長
3年(
1251年
)1月22日:
侍従
に任ぜられる。12月22日:
従五位上
に昇叙。
建長6年(
1254年
)5月10日:
正五位下
。9月6日:
右少将
。
建長7年(
1255年
)2月13日:兼
信濃介
。
康元
元年(
1256年
)1月6日・
従四位下
。1月7日:少将は如元。
正嘉
元年(
1257年
)閏3月27日:
左中将
に転任。
正嘉2年(
1258年
)4月6日:
従四位上
。
正元
元年(
1259年
)1月6日:
正四位下
。
弘長
2年(
1262年
)1月17日:兼
加賀介
。
文永
4年(
1267年
)1月5日:
従三位
。
文永6年(
1269年
)2月17日:
左中将
。11月28日:
参議
に任ぜられる
[
2
]
。12月2日:改めて
左中将
を兼任。
文永7年(
1270年
)1月21日:兼
讃岐権守
。2月1日:
正三位
に昇叙。8月14日:
左兵衛督
を兼ね
検非違使別当
に補される。
文永8年(
1271年
)4月7日:
右衛門督
に転任。10月13日:
従二位
。
文永10年(
1273年
)9月25日:検非違使別当を辞す。12月8日:右衛門督を辞した。
文永11年(
1274年
)4月5日:
権中納言
。
建治
2年(
1276年
)12月20日:
正二位
。
弘安
7年(
1284年
)1月13日:権中納言を辞した。
弘安9年(
1286年
)12月23日:父・通成が薨去したため喪に服す。
弘安10年(
1287年
)、出家。
系譜
父:
中院通成
(1222-1287)
母:
宇都宮頼綱
娘
妻:阿古 - 中納言典侍、
三条公俊
娘
男子:
中院通藤
妻:高倉清俊娘
生母不明の子女
男子:
中院通冬
- 左中将
脚注
[
脚注の使い方
]
^
左中将
^
父・通成が内大臣を辞した際の挙任である。
出典
『
公卿補任
』(新訂増補国史大系)
吉川弘文館
黒板勝美
、国史大系編集会(編) ※
文永
4年(
1267年
)に通教が
非参議
従三位となった時以降の記事。
『
尊卑分脈
』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「中院通教」および「
中院通成
」の項。