中村進午
中村 進午(なかむら しんご、明治3年7月21日(1870年8月17日) - 昭和14年(1939年)10月21日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(1901年)。東京商科大学名誉教授。「七博士意見書」により日露戦争開戦を主張した学者の一人。 経歴出生から欧州留学まで1870年、越後国高田(のちの新潟県高田市、現上越市)において、旧高田藩士・中村九朗の三男として生まれた。高田中学校を卒業し、第一高等中学校に入学。1891年に第一高等中学校を卒業して東京帝国大学に入学。1894年、東京帝国大学法科大学を首席で卒業[1]。卒業後は同大学院に進んだ[1]。 大学では、初め末岡精一に師事して国法学を研究したが、実兄である国際法学者前田盛江が夭逝すると、ドイツ・イギリス・フランス各国に留学して、国際法、外交史等の研究に転じた[2][3]。 帰国後、法学者として1896年、高等商業学校(現・一橋大学)の講師となり、1897年(明治30年)、学習院教授に就任[1]。 日露戦争開戦の直前、他の6人の博士とともに政府の対ロシア外交を批判して、七博士建白事件により日露開戦を主張した。その後、講和条約であるポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して連名で提出したことから、学習院教授を免職となる。退職金で千葉県一宮町老女子に別荘を買い、そこに蟄居した[1]。 1906年(明治39年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)教授に就任[1]。1930年(昭和5年)に東京商科大学を定年退官し、東京商科大学名誉教授の称号を受けた[3]。弟子はいなかったため、国際法講座の後任教授には、民法の岩田新門下でグローティウス研究をしていた大平善梧を据えた[4]。その後も亡くなる前年の1938年(昭和13年)まで東京商科大学の講師を務めた[5]。 1926年(大正15年)には立教大学教授も務め[6]、1939年(昭和14年)まで憲法、国際法を講じ[7]、立教大学予科においても法学通論を教えた[8]。また、1939年(昭和14年)まで早稲田大学法科教授や拓殖大学学監も務めた[5]。他に海軍大学校、海軍経理学校、日本大学、慶應義塾大学、中央大学、明治大学、法政大学、上智大学、日本女子大学校等でも教鞭を執った。 酒好きが高じて信州旅行中に持病の胃潰瘍が悪化して倒れ、代々木三谷の自宅で療養していたが、1939年10月、70歳で亡くなった。墓所は雑司ヶ谷霊園にある。 職歴
受賞・栄典研究内容・業績近衞篤麿に期待された法学者であり[9]、外交史、国際法に関する著書を多く執筆した。多数の大学で教鞭をとっており、後進を育成した。ユーモアのある人物であったようで、弟子はその授業を振り返っており[10]、また「熱河」という雅号を持ち[11]、『蛙のはらわた』、『天に口なし』というエッセーも残している。 旧蔵書は「中村進午文庫」としてその大半が早稲田大学へ寄贈されており、その数は江戸時代後期の版本類を中心に1598部、8359冊がある[12]。その他には、旧蔵書約100 冊が一橋大学に、1,200 冊ほどが拓殖大学に寄贈されている。一部は弟子らに分けられたと思われ、法学者の一又正雄文庫などに入っている[13]。 家族・親族
著書単著
訳著
編著共訳
関連書籍
参考文献
脚注
関連項目
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