中井増太郎
中井 増太郎(なかい ますたろう、1895年(明治28年)10月13日 - 1969年(昭和44年)10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴鳥取県出身。1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官。1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業し、陸軍士官学校に配属された。 1939年(昭和14年)3月、歩兵大佐に昇進。同年9月、支那派遣軍附となり日中戦争に出征。第21軍高級参謀を経て、1940年(昭和15年)2月、第22軍高級参謀に就任。同年6月、大本営附となり、同年9月、印度支那派遣軍参謀として北部仏印進駐に従事。同年12月、陸軍歩兵学校教官に発令された。1941年(昭和16年)3月、第20師団参謀長となり朝鮮に赴任し太平洋戦争を迎えた。 1943年(昭和18年)1月、第20師団は東部ニューギニアに派遣され、ニューギニアの戦いに参戦。同年8月、陸軍少将に進級し第20歩兵団長に就任。1944年(昭和19年)4月、片桐茂師団長が戦死したため、翌月、師団長心得に就任。1945年(昭和20年)4月、陸軍中将に進級し第20師団長に親補された。オーストラリア軍と戦闘を交える中で終戦を迎えた。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。 脚注
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