三豊百貨店
三豊百貨店(サンプンひゃっかてん、サムプンひゃっかてん、朝鮮語: 삼풍백화점)は、かつて大韓民国(韓国)のソウル特別市瑞草区にあった百貨店。1995年に発生した三豊百貨店崩壊事故(삼풍백화점 붕괴 사고)で知られる。 概要1989年12月1日に開店。建物は売場が大部分を占めるA棟とスポーツセンターなどが入居するB棟、そしてその間に位置するコンコースで構成されていた。当時は韓国で業界1位の売上高を誇る高級百貨店であり[1]、ソウルの富裕層を主なターゲットとしていた。 しかし建物の設計上の様々な欠陥が重なり、1995年6月29日17時57分(KST)、営業中に突然A棟が両端の一部を残して崩壊し、死者502名・行方不明者6名・負傷者937名という建物崩落事故としては当時世界最多の被害者を出す大惨事を起こした[2]。 この事故により三豊百貨店は廃業に追い込まれ、現場は残ったB棟とコンコースが解体された後もしばらく空き地のままだったが、現在は高級マンション「アクロビスタ (Acrovista) 」が建てられている。 1994年10月の聖水大橋崩落事故、1995年4月の大邱上仁洞ガス爆発事故、そして同年6月に三豊百貨店崩壊事故が発生し、大規模事故が連続して起きたことが契機となり、韓国では1995年7月に災難管理法が成立した。また、聖水大橋落下事故や三豊百貨店崩壊事故を契機に、消防防災庁直属の救助部隊「中央119救助隊」が設置された。 その後、2013年にバングラデシュで発生したダッカ近郊ビル崩落事故が建物崩落事故としてはこの事故を超える世界最多の被害者を出す大惨事となった。 三豊百貨店崩壊事故
崩壊の原因建築計画・設計段階での不正当初この建物は、経営母体の三豊建設産業によって自社で開発したニュータウン内に立地する地上4階・地下4階建てのオフィスビル兼商店街(雑居ビル)とする設計で起工したが、建設途上で三豊側がこの建物をデパートに用途変更することを決定した。三豊は、建設者の宇成建設に変更を要求したものの、宇成側は建物の用途が大きく変更されてしまうことから設計変更を行うのは危険だとして拒否した。すると三豊側は基礎工事が終わった段階で宇成建設と結んでいた建設契約を破棄し、三豊建設産業が直接建設することになった。しかし、当時の韓国の法律では建物の用途の変更に伴う構造変更を行う際はこれに対する専門家の審査を受けなくてはならない規定となっていたが、三豊側はこれを無視して建設を続行した上、竣工時の検査すら無視していた。 これに加え、当初三豊側はこの建物を住宅地域に指定されていた地区に建設しようとして無届工事を理由に行政処分を受けていたにもかかわらず、瑞草区側に総計1,300万ウォンの賄賂を贈って違法に用途を変更したことも後に明らかとなった。 施工不良この建物は本来、梁を使用すべきところを、荷重制限のある柱で建物を支える建築工法(フラットスラブ構造)を採用していた。この工法のメリットは、
の3点である[3]。一方、
というデメリットがある[4]。 当初の雑居ビルとしての使用を前提とした設計においてはこの構造でも強度上問題ないものであったが、後に三豊側が建物構造を不法に変更した際に当初の設計案にあった建物内の壁を撤去したため、結果として柱に荷重が集中し強度が低下することとなった。さらに、構造変更時にビル中央部にエスカレーターを設置し吹き抜け構造としたため荷重の不均衡が生じた上、本来なら柱を補強すべきところを補強しなかったばかりか、意匠を重視して当初の設計案では直径800mmの柱を採用する予定だったところを直径600mmに削減し、さらに内部の鉄筋の数も16本から8本に削減した。その上、このエスカレーター部分に防火シャッターを設置するため、ビル中央部の柱の4分の1が撤去されていた。この結果として、ビル自体が構造的に強度不足になった。 また、当時は大規模なニュータウンが各所で建設されたために韓国の建設業界では資材不足に陥っており、砂・砂利とセメントの配合比率が基準を満たさないようなものや、中国産の低質なセメントが用いられたような粗悪なコンクリートが使用される事例が相次いで発生していた。加えて、後述の通り当初計画より1フロア分を最上階に増やしたため、その階の建設に使用されたコンクリートだけで3,000トンもの重量増となったばかりか、87トンの冷房機器が屋上に設置されたことで、当初の計画通りの柱ですら過負荷となるほどの大きな負荷が建物全体に掛かっていた。 不適切な増築宇成建設との契約を破棄した後、三豊側はこの建物を5階建てにすべく5階部分の増築を無許可で開始した。加えて、当初の計画では建築基準を満たすため5階部分をローラースケート場とする予定として一旦は正式な届け出を提出したが、これも後に不法にレストラン街に変更された。しかもこの店舗は韓式レストランであったため、床に直接客が座る都合上床暖房(温水式オンドル)を設置することになり、結果として床暖房の温水パイプを通し暖房の効果を上げるために、床部分だけで延べ3,000トンの大量のコンクリートが使用された。また、店内には厨房で用いる大量の機材が設置されたほか、店内の意匠としてレンガの壁や石庭などがフロア上に構築されたため実際にはさらに荷重が増加していた。 さらに、5階の上にあった屋上部分は建設途中でスラブの厚さが6cm厚から9cm厚に変更された上、当初の予定では地下に設置する予定だった重さ87トンの冷房機器を地下空間確保のために荷重を評価せず屋上に設置したため過大な荷重が掛かり、建築当初から冷房機器が作動することによって建物全体に微細な振動が発生する有様であった。 冷房装置の不適切な移動当初、前述の屋上に設置された大型冷房装置は建物の東側に設置されていた。しかしこの場所は近隣の住居のすぐ近くだったため、やがて住民から冷房装置の作動音に関する騒音苦情が寄せられるようになった。これを受けて三豊側は1993年8月にこの冷房装置を建物の西側に移動させる工事を行ったが、この際にコスト削減を理由にクレーンを使用せず、ローラーを用いて屋上を転がして機器を移動させた。この結果、ただでさえ強度が不足していたビル全体にさらに多大な負荷が掛かり、破壊が進行していった。 その他の事故原因・欠陥このほか、以下の点が事故の原因として挙げられている。
崩壊1995年4月頃より、5階のレストラン街では天井(屋上スラブ)に亀裂が入っているのが確認されていた。5月になるとこの亀裂から5階のフロアに砂が降ってくるようになり、同時に床面も沈下しているのが確認されていた。事故の前日には、5階の従業員が天井(屋上スラブ)のひび割れに気づいており、事故当日の朝にはひび割れが大きくなっていたため、同従業員はすぐに上司に報告している。しかし、三豊側は事故当日に現場を視認するまで、これに対する対策は何ら取っていなかった。 事故当日の6月29日、午前中に5階の従業員が建物の異常を報告。正午頃になると5階の天井から水漏れが発生したため、当座の措置として5階の営業を中止してガス供給も止め、さらに冷房装置の電源も遮断した。これを受け、当日の15時には社長が呼んだ建築士が同百貨店に到着して建物の状態を調査し、その1時間後の16時よりB棟にて経営陣を集めた緊急会議が開かれたが、「補修すれば問題ない」と建物の現状を過小評価した。一部に営業を続行する判断に対して反対意見が出されたものの、経営陣は最終的に「営業しながら補修を続ければ問題ない」旨の判断を下し、それを押し切って営業は継続された。その後も引き続き会議が行われたが、17時40分頃になるとB棟も含めた建物全体が沈下するようになり、三豊側は急遽1階と2階以外の全フロアの営業を中止し、建物の四隅に仮組の補強用骨格を建てて建物の沈下を食い止めようとしたが、その結果今度は5階の天井に多大な負荷が掛かった。 そして17時57分、5階部分の柱2本が折れたことを引き金にA棟が崩壊。崩落した上の階の残骸が下の階を押し潰す形になって急速に破壊が進行し、20秒程度で全てのフロアが崩落した。建物全体が沈下し始めたことに違和感を覚えた一部の客と店員は避難に成功していたが、店内に残っていた客と店員合わせて約1,500人が崩壊に巻き込まれて下敷きとなった。崩落直後より大規模な救助活動が行われたが、最終的に死者502名、負傷者937名、行方不明者6名を出す大惨事となった。この事故は韓国国内では2024年現在でも単一の事故による最多の死傷者数であり、人命被害数としても朝鮮戦争に次ぐ韓国史上2位の被害者数である。 崩壊現場付近では崩壊に伴って発生した瓦礫と同時に店内にあった商品が大量に散乱しており、一部では略奪行為が行われたとされている。 経営陣などへの責任追及崩壊前には緊急会議を行っていた経営陣は、A棟崩壊の瞬間は崩壊しなかったB棟にいて難を逃れた。しかし、崩壊直後より「経営陣は崩壊前に建物から脱出していた」とする誤った情報が流れ、三豊側は激しい批判に晒された。 事故後に当時の経営陣は刑事訴追され、三豊建設の当時の会長李鐏を始めとする当時の三豊百貨店経営陣は業務上過失致死傷の容疑で実刑判決を受けた。さらに、前述の収賄事件を巡り前任の瑞草区長、瑞草区の前住宅課長、ソウル特別市の係長なども収賄・業務上横領・虚偽公文書作成などの容疑で逮捕・起訴されており、同事故を巡って起訴された人物は25名に上る。 報道
事故の影響
本事故を扱った作品
崩壊前のフロア構成
脚注
関連項目
外部リンクすべて韓国語のウェブサイト。
|