三笑亭芝楽三笑亭 芝楽(さんしょうてい しばらく)は、落語の名跡。関連する名跡である柳亭 芝楽(りゅうてい しばらく)についてもこの項目で説明する。 三笑亭を紋の「三升」に見立て、その紋を用いる歌舞伎俳優の歴代市川團十郎ゆかりの演目「暫」をかけた名前といわれる。江戸と上方の二流ある。 当代は江戸で、「11代目柳亭芝楽」を名乗る。 上方
江戸江戸各代の代数に関しては不明な点が多い。
代数不明
柳亭 芝楽(りゅうてい しばらく、1886年1月 - 1930年1月~2月頃)は、落語家。 経歴初め3代目春風亭柳枝門下で8代目にあたる春風亭傳枝を名乗る。1909年頃、3代目柳家小さん門下で初代にあたる柳家小團治となる。 1911年10月、5代目柳亭左楽門下に移り、師匠の前名である柳亭芝楽を襲名。声色、手踊りなどで名を売ったが、噺家芝居に出た際の借金で東京にいられなくなり、北海道小樽で幇間となる。以降の消息は不明。享年不詳。 9代目
九代目 柳亭 芝楽(りゅうてい しばらく、1892年7月18日 - 1962年11月20日)は、落語家。本名:伊藤 豊。 略歴初め1910年頃に二代目柳亭左龍門下で龍松。翌年七代目朝寝坊むらくの門下で夢松。大正に入り橘松と改名。1917年頃に三遊亭桂馬を経て、1921年2月に三遊亭圓雀で真打となる。 1923年5月に五代目柳亭左楽門下に移り、魚楽を経て、1933年10月に九代目朝寝坊むらくを襲名。1940年6月、九代目柳亭芝楽を襲名。 戦後は日本芸術協会に加入した。晩年は高齢による白内障を発症。1962年には肝臓病になり入院。その後退院するも、同年11月4日、友人宅を訪ねる途中、国鉄王子駅プラットフォームで、線路に落とした土産物の赤飯を拾おうと下りたところ、桜木町発南浦和行きの京浜東北線に轢かれ死去した。 人物脚注参考文献
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