三上作夫
三上 作夫(みかみ さくお、1907年(明治40年)5月25日 - 1996年(平成8年)7月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最後の連合艦隊作戦参謀で、戦後は自衛艦隊司令官を務める。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。妻は今村信次郎海軍中将の娘。 来歴略歴広島県芦品郡宜山村(現・福山市駅家町)大橋出身。福山中学を経て海軍兵学校56期を卒業。同期生に高橋赫一、大谷藤之助、田辺弥八らがいる。三上は砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官で駆逐艦の砲術長や戦艦日向の副砲長、砲術学校教官などを務めた。海軍大学校甲種37期を卒業。中島親孝、岡田貞外茂、藤村義一らが同期である。在校中に海軍少佐に進級し、第一水雷戦隊砲術参謀として太平洋戦争開戦を迎え、真珠湾攻撃などに参戦した。 1942年(昭和17年)3月、軍令部作戦部員(情報)となり、1944年(昭和19年)9月、連合艦隊作戦参謀、1945年(昭和20年)5月、海軍総隊参謀と作戦関係の配置を歴任し、ミッドウェー海戦、レイテ沖海戦、天一号作戦等に関与した。戦後は海上自衛隊に入隊し、護衛艦隊司令官、佐世保地方総監、自衛艦隊司令官などを務め、1965年(昭和40年)1月に退官した。 レイテ沖海戦レイテ沖海戦において、第二艦隊司令長官・栗田健男からの反転電に対し、「天佑ヲ確信シ、全軍突撃セヨ」の電文を起案したのは三上である[1]。三上は同海戦について「戦力がない日本海軍の戦いとしては、相当のところまでよくやった」、「でき過ぎ」と語っている。 天号作戦戦艦大和をはじめとする第二艦隊の沖縄特攻作戦決定に際しては、参謀長の草鹿龍之介とともに九州に出張中で関与していない。草鹿が「一億特攻の魁になっていただきたい」と述べ伊藤整一司令長官を説得した際に同行している[2]。三上はほとんど成功の算がない作戦に責任を感じ、同行を申し出たが第二艦隊に拒否された[3]。 年譜
栄典脚注
参考文献
外部リンク
|