一柳直次
一柳 直次(ひとつやなぎ なおつぐ)は、江戸時代前期の大名。播磨国小野藩2代[要出典]藩主[注釈 2]。 生涯元和9年(1623年)[1]、丹波園部藩主・小出吉親の次男として生まれる[1]。寛永10年(1633年)、11歳で徳川家光に初謁[1]。 寛永19年(1642年)、一柳家先代・直家の臨終に際して養子となる[1](直次の姉が、直家の弟である一柳直頼(小松藩主)の妻という縁にあたる)。直家は自らの娘を直次に娶せ遺領を継がせようとしたが[1]。しかしこれが末期養子の禁に抵触するという理由でとがめらた[1]。 寛永20年(1643年)3月15日に伊予国の1万8600石が収公された[1]。直家の娘と直次との結婚は許され、播磨国加東郡の1万石にが与えられた[1]。この結果、小野藩の所領は2万8600石から1万石に減少した。同年4月1日、直次は徳川家光に拝謁し、家光と家綱に刀を献上している[1]。5月、封地に赴く暇を賜う(参勤交代)[1]。 加東郡の分領支配のために置かれていた敷地陣屋(現在の小野市敷地町、大部小学校付近)は規模が小さかったとみられ[5]、承応2年(1653年)に直次は小野陣屋(小野市西本町、小野市立小野小学校付近)に移る[5]。 万治元年(1658年)12月27日[1]、江戸上野の寒松院で死去。享年36[1]。跡を長男の末礼が継いだ。 脚注注釈出典
参考文献
外部リンク |