ヴェムディング
ヴェムディング (ドイツ語: Wemding) はドイツ連邦共和国バイエルン州シュヴァーベン行政管区のドナウ=リース郡に属す市で、ヴェムディング行政共同体の本部所在地である。 この街は隕石の衝突により形成されたリース・クレーターの周縁部に位置している。 地理周辺都市市区本市は、公式には5つの地区 (Ort) からなる[2]。このうち小集落や孤立農場などを除く集落を以下に列記する。
歴史ヴェムディングは793年にゴスハイム(原典の表記は Kaozeshaim。現在はフイスハイムの一部)のヘルモイン伯の贈与証明書に "Uembodinga" として初めて記録されている。この人物はカール大帝の特権を得て、ゴスハイム周辺の所領 (9.35 km2) をフライジング司教に寄贈したのである。当時ヴェムディングは4つの農場からなっていた。マイアースホーフ、カッツェンザッテルスホーフ、ザントビッヒェルスホーフ、ゼーガルテンホーフである。「(前略)そして、森も Wembodinga に属し、建築用木材やみんなが必要する薪の権利はこの地の教会の責任者が有した(後略)」 789年に王カールはヴェムディングをレーゲンスブルクの聖エンメラム修道院に寄進し、その後500年にわたってその所領に留まった。修道院と司教がレーエン領主として機能し、レーエン受領者を使役できたことは重要である。宗教施設も世俗の統治権やそれに伴う権力と同様カール1世の教会との宥和政策の一環であった。このため王は数多くの教会、修道院、聖堂、館を建設し、カトリックを帝国の国教とした。 893年から935年までネルトリンゲンの貴族婦人ヴィンプルク (Winpurc) がヴェムディングをレーエンとした。当時ヴェムディングにはすでに200人ほどの人口があった。この街はローマ街道や塩街道沿いにあたり、交易路やその他の交通路が町を通っていたことが解っている。 1343年にエッティンゲン伯はこの街を都市に昇格させた。1467年にこの街はニーダーバイエルン公ルートヴィヒ9世の行在所となった。1503年にこの街は Wembodingen(アラマン語風の語尾)から現在の Wemding に改名した。 1669年から1672年までカプチン会修道院が改築された。1808年にこの都市は自治行政権を失ったが、1818年のバイエルンの行政改革に伴う市町村令によって再び自治体が成立した。1972年にアーメルバッハが合併した。 行政市長2008年の選挙でマルティン・ドレクスラーが当選した。彼は、1990年から2008年まで市長を務め2008年には立候補しなかったイュルゲン・フォン・シュトライトから職を引き継いだ。 市議会市議会は20人の議員からなる。 紋章ヴェムディング市の紋章は、2本の斜め帯で構成される角、5つのユリ、三日月で構成される。これはこの街の歴史を物語っている。赤い帯の角はアンドレアス十字(斜め十字)の半分であり、150年近くの間ヴェムディングの領主であったエッティンゲン家の紋章に由来する。5つのユリはニーダーアルザス伯の紋章に由来するものである。この地方のレーシュヴォーク地方裁判所と5つの町はエッティンゲン家が有していた。しかしエッティンゲン伯はヴェムディングの防衛施設拡充のための高額な費用を捻出するためにこの所領を売却せねばならなかった。三日月はモンハイム市に由来する。この街もエッティンゲン伯が負債軽減のために売却しなければならなかった所領である。 姉妹都市文化と見所
博物館
スポーツと余暇
年中行事
経済と社会資本交通鉄道 旧ネルトリンゲン - ヴェムディング線は1903年に開通し、1981年に旅客運行を停止した。月曜日から土曜日まではドナウ=リース交通会社のバス路線が様々な方面へ運行している。 企業フランスの自動車会社ヴァレオはヴェムディングに約1,200人の従業員が働く工場を有している。[3] 人物
引用
外部リンク |