ヴィクトル・ジュール・ルバスール
ヴィクトル・ジュール・ルバスール(仏:Victor Jules Levasseur、1800年12月8日 - 1870年2月8日)は、フランスの地理学者、地図製作者。 19世紀半ばから地籍調査に従事し、美麗な意匠の地図を製作するほか、パリ市所属の地理学者および測量技師 (フランス)として活動した[1]。 経歴ヴィクトル・ジュール・ルバスールは1800年12月8日にカーンで生まれた。父親のヴィクトル・ガブリエル・ルバスールはフランス第一帝政の軍人で、彼が生まれた年に准将に昇進した。彼はエコール・ポリテクニークで教育を受け、パリ市所属の地理学者、測量技師としてフランスとその代表的な植民地であるアメリカ、アフリカ、アジアの86(1859年以降は89)の部門とその所有物のアトラス(地図)を製作した。彼はレジオンドヌール勲章の司令官に任命され、1870年2月8日にパリで死去した。彼の息子であるピエール・エミール・ルバスールは歴史家、経済学者、地理学者で、コレージュ・ド・フランスの校長も務めた。今日では、ヴィクトル・ジュール・ルバスールが製作した地図は地理情報の確度よりも、図面の周囲にある特徴的な意匠において高く評価されている[2]。 地図解説フランスの地図19世紀の貴重な証言となる境界線と国境線に手彩色が施された(1859年版まで)地図は、統計・歴史的記録と部門のデータが植民地の特徴的な版画で囲まれている。これらの地図には道路、鉄道、水路が描かれており、部門は行政区、州、コミューンに分かれている。製作作業はカダストレ (日本における地籍に相当する)、コープ・デ・ポン・デ・オー・エ・デ・フォレ(フランスの橋・水・森の調査開発部門)、デポ・デ・ラ・グエル(フランスの軍事目的による地図製作部門)の情報をもとに進められた。この地図は役所で幅広く使用され、1842年から1872年にかけて3つの異なる出版社からおよそ20回印刷された。ビネット社が1842年から1844年まで、アマブル・コンベット社が1843年から1858年まで(パシャミネリー通りにある印刷所が15種の地図に記載されている)、同社の破産後はフェリテ・ペリシエ社が1859年から1872年まで印刷した。しかし、この地図は1860年のサヴォイア公国およびニース郡のフランス併合、普仏戦争後における1871年のテリトワール・ド・ベルフォール県の創設などの地政学的な混乱にもかかわらず、多くの地理的変更点が見られない。その大きな理由は1845年以降、ルバスールが地図の改訂に消極的であったためである。その一方で、1847年から1872年にかけて、地図の約半分の装飾的な境界線と統計情報が変更されている。地図の周囲には各部門の風景、特産品、著名な出身者または関連人物の肖像が芸術的かつ精巧な版画で示され、左右には統計と歴史を解説した短いテキストが記載されている。以下、ここに例として6点の地図を掲げ、版画で描写された主な情報を記す。前述したとおり、地図を含む各データは必ずしも発行当時の最新情報が反映されたものではない。
世界地図Atlas Universel Illustré(アトラス・ウニヴェルセル・イリュストレ、図解:世界地図)と題する6つの地図は、1845年の初版以来、フランスの地図、” l'Atlas National Illustré de la France”にも含まれている。この地図はヨーロッパ、アフリカ、アジア、南北のアメリカ、オセアニアの6部門からなる。これらはフランスの86または89の部門の地図と同じく、装飾的な意匠に囲まれている。なお、オセアニアを除くほとんどすべての地図には《地理学者・技術者、V・ルバスールによる統計と地理》と記載され、1840年から1845年までの多くの地図の初版にはパリにおける彼の住所(コンベット版は1845年発行の完全版に「マルテ通り24番」とある)が記されている。地図のビネットはそのほとんどが版画家のフレデリック=ギヨーム・ラギレルミー(Frédéric-Guillaume Laguillermie、1805-1870年)によるもので、サン=ジャック通り82番にあるレイノー社(Rainaud)で製作された。リトグラフは53cm×32cmの厚い紙に印刷され、はじめは大きなフォリオ判か、羊革製のタブに貼り付けたハーフ・フォリオ判の製本版で発行された。現在では、ほとんどの場合、シート単体で販売されている。
メルカトル式地図*タイトル画像を参照 出版タイトル履歴
発行1842年以降、パリの3つの出版社から発行されている
脚注外部リンク |