ワルチング・マチルダ
「ワルチング・マチルダ」(Waltzing Matilda)は、オーストラリアの歌。「非公式の国歌」と表現されるほど同国を代表する曲として世界的に広く知られている。 なお、「Waltzing」の実際の発音は「ウォルティング」に近い。 歴史など1895年にウィントンのキャトルステーション「Dagworth Station」に滞在していたジャーナリストのバンジョー・パターソンが、婚約者(サラ・ライリー)の友人クリスティーナ・マクファーソンがツィターで奏でた行進曲風の「Thou Bonnie Wood Of Craigielea」というスコットランド音楽のメロディに歌詞を施したものである[1]。 パターソンによる原詩は同ステーションで起きた労働闘争に関するいくつかの事件に基づき、政治的なメッセージが含まれているとされる[2]。また、サビの歌詞はクリスティーナへの想いが込められているという研究がある。この曲の発表後、パターソンはクリスティーナとの浮気発覚により婚約を解消され、現地を去った。サラはショックで生涯独身を貫いた。その経緯からパターソンは曲や当時の出来事を語ることはなかった。この逸話は1971年にクリスティーナの手書き原稿が発見されたことで明らかになった。 完成後の初披露は1895年4月6日ノースグレゴリーホテルが定説であり、ワルチング・マチルダ・センター(記念博物館)の提案で2012年から4月6日が記念日に制定されたが[3]、その後の研究で異論(8月説)も噴出している[4]。 1902年に詞の権利を紅茶会社ビリー・ティー(Billy Tea)に譲渡。1903年からビリー・ティーのコマーシャルソングに使用されるようになり、この際にビリー・ティーの所有者の妻マリー・コウワンにより詞、曲ともに書き改められた[5]。現在広く知られているのはこのコウワンのバージョンである。歌詞に焚火缶(Billycan)を意味する「ビリー(Billy)」でお湯を沸かす描写があるのはそのためである。 最初の録音(ピアノ伴奏)は1926年にイングランド出身で元豪兵[6]のテナー歌手ジョン・コリンソンによりロンドンで行われた[7]。 1938年に英国のトーマス・ウッドがオーケストラ編曲、バリトン歌手のピーター・ドーソンによりヒットした[7]。これ以降、軽快ながらも重厚な編曲が主流となる[8]。 第二次世界大戦に入り、多数の録音が行われた[7]。また、米海兵隊第1師団が行進曲として採用した。 戦後はバール・アイヴス、ウィリアム・クローソン、ハリー・ベラフォンテ、ジョシュ・ホワイト、南アのMarais & Mirandaなど豪州以外のフォーク歌手によるカバーが相次いだ[7]。 また、1956年メルボルンオリンピックに合わせてオーケストラ演奏の派手な音源が複数作成された[7]。 歌の意味貧しい放浪者が羊泥棒を働いて、追いつめられて沼に飛び込んで自殺するというストーリーの歌である。 ワルチングは「当てもなくさまよい歩く」という意味で(この曲は、ワルツの三拍子ではない)、マチルダは「寝袋かその他の寝具が束になったもの」[9]である。身寄りのない一人の貧しい放浪者が毛布だけでオーストラリア大陸をさまようという設定である。 歌詞についてはいろいろバリエーションがあるが、その一つの大意は以下の通り。
オーストラリアを象徴する歌としてマチルダはオーストラリアの代喩となり、例えば、サッカーオーストラリア女子代表は「マチルダズ」と名乗っている。 オーストラリアの国歌である「アドヴァンス・オーストラリア・フェア」とともに、愛国的な歌として認識されてきた。1976年モントリオールオリンピックで演奏され、また、ニュージーランドのラグビーチーム、オールブラックスの「オールブラックスハカ」(All Blacks haka) に対応して、ラグビーユニオンの聖歌とされ、またオージーフットボール (Australian Football League, AFL) の決勝戦で毎年「アドバンス・オーストラリア・フェア」と共に演奏される。公式な認定はないが、多くの機会に歌われる。アメリカ合衆国でいうゴッド・ブレス・アメリカにあたる位置づけの歌として定着している。 関連作品
脚注
関連項目
外部リンク |