ワイヤー (バンド)
ワイヤー (Wire) は、1976年にイギリスのロンドンで結成されたポストパンク・バンド。 概要イギリスのパンク・ロックシーンから現れ、'70~'80年代において最も影響力のあるグループの一つとしてしばしば言及され、多くの後進アーティストにインスピレーションを与えている。ポストパンク黎明期における重要なバンドであり、実験的な表現や制作プロセスにフォーカスした独特のスタンスで異彩を放ち続けている[1]。 経歴1976年、コリン・ニューマンとブルース・ギルバートが、ワイヤーの前身バンド、Overloadを結成した。そこにグレアム・ルイスとロバート・グレイ(デビュー時のステージネームはロバート・ゴートゥベッド(Robert Gotobed)だったが後に本名名義に変更)が加わり、ワイヤーの原型ができあがった。1977年から4人編成での本格的な活動が始まった[2]。 同年、ソフト・マシーン、後にはブラーなどのプロデューサー[3]で知られるEMIレコードのマイク・ソーンに出会う[1]。同年春、マイク・ソーンがプロデュースしたパンク・ロックのオムニバス・アルバム『The Roxy London WC2』にバズコックスやエックス・レイ・スペックスなどと共に参加し[4]、レコード・デビューを果たした。 ピンク・フロイドがかつて所属した、EMI傘下のハーヴェスト・レコードと契約し、マイク・ソーンのプロデュースで1977年から1979年にかけて、『ピンク・フラッグ』『チェアーズ・ミッシング(旧邦題:消えた椅子)』『154』の3枚のアルバムをリリースした[5]。『ピンク・フラッグ』は1分未満の楽曲も多い、荒削りなパンク・ロック・アルバムだったが、『チェアーズ・ミッシング』『154』ではシンセサイザーやギターエフェクトを多用した、より複雑でアトモスフェリックなサウンドになった。パンクバンドとしては異色で、「初期のピンク・フロイドを思わせる」と評された。初期の彼らのキャッチフレーズは「ロックでなければなんでもいい」というもので、ロンドン・パンクにおける名台詞のひとつとされている。彼らのアルバムは大手レーベルからリリースされたこともあって、海を超えてアメリカのオルタナティヴ・ロックに大きな影響を与えた。 1980年に解散し[6]、コリン・ニューマンはソロ活動を開始。シングルやアルバムを精力的にリリースする。ルイスとギルバートはドームを結成しアンビエント・ミュージック[7]、インダストリアル・ミュージックにのめり込んだ。 1985年に活動を再開し[6]6枚の作品をリリースした。1990年にドラマーのグレイが脱退し、1992年から2000年にかけて再度活動を休止した[6]。2000年の再始動時は、オリジナル・メンバー4人での復活であった[1]が、2004年にブルース・ギルバートが脱退[8]した。2011年、It Hugs Backのフロントマン、マシュー・シムスがギタリストとして加入した[9]。 影響ワイヤーが後世に与えた影響は非常に大きい。1980年代や90年代には、ユリナルズや、マニック・ストリート・プリーチャーズ、ミニットメン、ソニック・ユース[10]、R.E.M.[11]らがワイヤーのファンであることを公言したり、さまざまな形で表現した。R.E.Mは「ドキュメント」というアルバムでワイヤーの「Strange」をカバーする一方で、ワイヤーの「Feeling Called Love」という曲をまねて「What's the Frequency, Kenneth?」(1994年のアルバム「モンスター」に収録)という曲を制作した。 イギリスではゴシック・ロックの代表的バンド、ザ・キュアーのロバート・スミスはワイヤーのライヴを観てから、ファーストアルバム以降のサウンドにいかに大きな影響を与えたかを話すなど、ワイヤーから絶大な影響を受けたことを公言している[12]。ブラーやエラスティカ、メンズウェアなどのブリットポップバンド、フランツ・フェルディナンド、ブロック・パーティ、フューチャーヘッズといったポストパンク・リヴァイヴァルバンドにも音楽的影響を公言されている。エレクトロ・ポップグループ、レディトロンはワイヤーの楽曲「The 15th」をリミックスした。メンバーの一人であるルーベン・ウーはワイヤーからの音楽的影響を公言している[13]。 また、ワイヤーはアメリカのハードコア・パンクにも影響を与え、マイナー・スレットはワイヤーの楽曲「12XU」をカバーしている[14]。ビッグ・ブラックもワイヤーの楽曲「Heartbeat」をカバーし、シングルとしてリリースしている。 作品スタジオアルバム
EP
コンピレーション・アルバム
注釈
外部リンク
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