ロタリンギア
ロタリンギア(Lotharingia)は、西ヨーロッパに短期間存在した王国である。ロタール2世が父ロタール1世(中フランク国王・神聖ローマ皇帝)から継承した領土の集合。名前はラテン語のLotharii Regnum(ロタールの領土)に由来する。 概要この領域は843年のヴェルダン条約で分割されたカロリング朝の諸王国のうちの北部にある。ロタール2世の死後、遺領は870年メルセン条約により、東フランク王国と西フランク王国の間でさらに分割された。 厳密には、ロタリンギア人という統一された民族集団は存在しなかった。ロタリンギアと総称される地域には、現在の以下の国々や地方が含まれる。 ロタリンギアの名はロレーヌ(フランス語:Lorraine)、ロートリンゲン(ドイツ語:Lothringen)の由来になった。 ロタール2世以後、ロタリンギアは独自の王を持たなかった。ドイツ王ハインリヒ1世(捕鳥王)は分割された国々を、ドイツ王の下の公領として支配下に置いた。その子で後継者のオットー大帝は、弟ケルン大司教ブルーノに支配権を認めた。959年、ブルーノは公領を上ロタリンギアと下ロタリンギアに永続的に二分した。 上ロタリンギアはロレーヌ(ロートリンゲン)公国となり、1766年まで続いた。ロレーヌは1000年の間、フランスとドイツの間の係争地となった。 下ロタリンギア(現在のベルギー、オランダ、ドイツのライン川西岸、フランス北部・スヘルデ川の東)の公は、1190年に完全に権威を失墜した。11世紀から12世紀の間に、下ロタリンギア公国はいくつもの公国(ブラバント、リンブルフ、ゲルデルン)、司教領、伯領、帝国直轄地へと分割された。ブラバント公は下ロタリンギア公(またはロチエ公、duc de Lothier)の儀礼称号を伝統的に保持した。 ロタリンギアの王
922年にロタリンギアは東フランク王国へ包含された。 脚注注釈出典関連項目 |