ロスコフ
ロスコフ(フランス語:Roscoff、ブルトン語:Rosko)は、フランスの北西部に位置するコミューンで、ブルターニュ地域圏のフィニステール県に所在する。 petite cité de caractère(特徴ある小さな町)(fr)に選ばれているロスコフには、16世紀や17世紀の建築遺産が存在し、19世紀からはタマネギ商人のジョニーら(fr)の出航地でもあった。現在、町の港からはアイリッシュ・フェリー(en)やブリタニー・フェリー(fr)によって、ブリテン諸島へのフェリーが運航されている。 潮汐による潮差が10.40mに達することもある海岸沿いは生物多様性に富み、ヨーロッパで初めての海洋生物学の研究・教育拠点であるロスコフ生物学研究所が1872年に創設された。 ヨウ素を含む波飛沫や北大西洋海流による温暖な気候から、タラソテラピー施設や医療完備の老人福祉施設が存在し、ロスコフはアフターケアを求める人々の滞在地でもある。 地理ロスコフはモルレー湾の西側にある岬に位置し、サン=ポル=ド=レオンの中心地から約5km北側に広がる。白く細かい砂の海水浴場が点在する海岸線が14km続く。陸路でのアクセスは、サン=ポル=ド=レオンからの県道58号、ロスコフの南西にあるサンテックからの海沿いの小道の2本である。ロスコフの北側には、強い流れの水道を挟んで約1.5Km先にバ島がある。 ロスコフは、ナチュラ2000の保護地域であるモルレー湾、Zone naturelle d'intérêt écologique, faunistique et floristique(動植物相、生態学的に重要な自然地域)(fr)のペンゼ川(fr)河口に含まれる。3千以上の生物種数を持つ[1]ロスコフの並外れた生物多様性は、沿岸域であることと、潮汐、気候、海流などの地理的な特異性に結びついている。そのため、北欧と地中海の藻類の生態系が重なって存在する。 地名の由来ロスコフの地名は、岬を意味する ros と、鍛冶屋を意味する goff というブルトン語に由来する。goff はおそらく人名であり[2]、プロゴフの地名と同様に、鍛冶神の Gofannon(fr)の名前を潜ませている。Roscoff をフランス語に訳すと「鍛冶屋の丘」という意味になる。 子音交替により ros の後ろの g が c に変化した。最後の子音 -ff の発音は、ブルトン語のレオン方言では無音であり、現代のブルトン語では Rosko [roskṓ] と表記する。フランス語での発音 [roskɔf] は、古代ブルトン語の表記 Roscoff を読み違えたためである。 歴史先史時代氷期が終わり、気候が温暖になったブルターニュは中石器時代に入った。人々は食糧の収集が容易な沿岸を中心に定住し始めた。ロスコフでは南のパンプラの貝塚が挙げられる。 巨石記念物は、ケルフィシエックのドルメンやレユニオンの石塔など、わずかにしか残っていない。当時のブロスコン岬は、おそらくバルネネのケアン(fr)のような墳丘墓であった。 青銅器時代に入り、ブリテン諸島でウェセックス文化が栄えた頃、大陸とブリテン諸島の間ではスズ貿易が盛んに行われていた。人々はクレデールなどの上流域に移り住んだが、鉱山の首領らは貿易を維持するため、下流域のロスコフやバ島の港を整備する必要があった。ロスコフの地名は「鍛冶屋の岬」を意味するが、それはこの時代にロスコフがスズの貿易地であったためではないかと想像される。 古代ブルターニュの西部は、ケルト人の部族オシスミイ(fr)が支配していた。当時、ロスコフは港町のひとつだったと考えられる。14世紀にロスコフとバ島の間にあるヴェルト島から剣や斧などが見つかり、17世紀のブロスコン砦の改築の際にはガリアの彫像が海中から発見された[3]。オシスミイ族の航海士らは、長年タルテッソスやカルタゴの貿易相手であり[4]、カルタゴの将軍ハンニバルの遠征時には、その関係は古代ローマに対抗する軍事的なものになった。のちにオシスミイ族の領土は、ガリア戦争を経て古代ローマに併合された。 ポル・ポティエ・ド・クーシは、ケラヴェルのドルメン近くで、3世紀の駐屯地跡から小さな青銅の像を発見した[3]。その部隊は、古代ローマの将軍が海賊を監視するため、ブレストに続く海岸線の新しい道沿いに派遣した一隊ではないかと考えられる。また、古代ローマの6世紀の金貨がケルゴフで[3]、他の貨幣がルギュエルでも見つかっている。 中世9世紀、ノルマン人がバ島に襲来し、周辺を荒らした。度重なる略奪に、人々は沿岸域を離れて内陸に移り住んだ。ノルマン人による侵略は、アラン2世(fr)がブルターニュから彼らを追放するまで続き、ロスコフの地は破壊されたが、再建が港や教会を中心に行われた。 レオン地方の中心サン=ポル=ド=レオンにあったパンプル港が次第に泥で埋まったため、船は半島の別の場所に着く必要があった。ラベールの東の海岸に位置した Rosko Goz(ブルトン語で古いロスコフを意味する)である。のちに古い町の中心となる場所は、ひとつの宿泊施設が占めていた。Croaz Batz(バ島の十字架)と呼ばれる場所で、現在はロスコフ生物学研究所の施設になっているオテル・ド・フランスの敷地である。1323年の古文書によると[5]、この宿泊施設は、土地の領主、バ島やレンヌの修道院長らによる封建的な契約に基づき建設された[6]。 14世紀のブルターニュ継承戦争時、ブロスコン砦はイングランド軍に一旦は占領されたが、ベルトラン・デュ・ゲクランに奪回された。戦争の後期には、Rosko Goz の港もイングランドの支援を受けたブレストの軍勢にたびたび攻撃された。 15世紀、サン・マロやモルレーの経済発展から船主らの資本主義が生まれ、ロスコフの港でも同様であった。ロスコフには、多くの仲買人が集まり居住した。ルイ11世により私掠船が奨励され、ロスコフには爵位を与えられた船主もいた。 近世16世紀、新しい町が Rosko Goz の700m北に建設された。そこには船に淡水を供給できる井戸があった[7]。港はリエパーヤからの毎冬のアマ輸入で栄えた[8]。アマの種子は、夏にリトアニア大公国で収穫され、レオンのリンネル工場により選別された。このリンネルの織物は帆布としての評価が高く、モルレーの港から大西洋沿岸やスペインなどに向けて輸出された。 1522年に Croaz Batz 聖母教会(fr)が建設され始めた。Saint Ninien 礼拝堂は司教の発案で建設され、1538年にレオン教区(fr)の修士会に迎え入れられた。町はレオン教区からの独立を希望し、1549年にブルターニュ議会(fr)により認められた。貧困者のための施療院が1575年から司教により建設され、聖ニコラ礼拝堂が1598年に付属された。1619年、聖バルブ礼拝堂が海賊からの保護と死者の魂を鎮めるために建設された。1634年、アラバスター礼拝堂が Croaz Batz 聖母教会の南に建設された。1640年に設置された聖アンヌ礼拝堂は、長年続いたペストの終焉を表している。16世紀から17世紀の終わりにかけて、教会の周りの土地は司教によりレオンの投資家や商人らに分け与えられた。そこには商店が建設され、私掠船一家の建物のように要塞化されたものもあった。 ロスコフは16世紀からモルレーと共に、グランドバンクでのタラ漁のために武装された最初の港のひとつであった。タラの塩漬けはフランスやスペインで売られた。ブルターニュは塩税に従わなかったため、ピカルディ地方やノルマンディー地方の漁師がロスコフで塩を安く仕入れた。ロスコフの漁師は塩をル・クロワジック(fr)で手に入れた。 1694年、ルイ14世に仕える軍人ヴォーバンは、ブロスコン砦を13の砲台と跳ね橋を持つものに改築する計画に署名した。ブロスコンはサン=ポル=ド=レオンの港湾本拠地となった。 フランス革命時の1790年、ロスコフは一方的にサン=ポル=ド=レオンから独立し、町の代表者を独自に選んだ。同年、サン=ポル=ド=レオンに宿営する共和派の軍隊が押し寄せ、町を迫害した。聖職者民事基本法の制定による混乱のなか、ロスコフは反乱の温床と見なされた。 近代ブルターニュは、その気候や土地の肥沃さから野菜栽培に適し、19世紀の初め頃には、ロスコフの農民らは収穫の時期になると、毎日10台ほどの荷車に野菜を積み、モルレーやブレストへ売りに出た。1828年、タマネギの行商人ジョニー(fr)の歴史が始まった。彼らはのちに名産品となるロスコフのタマネギ(fr)をイギリスへ売りに出た。 19世紀後半、ロスコフでは多くのインフラストラクチャーの整備が行われた。1867年、水難救助中央協会(fr)の基地が開設された。1872年、アンリ・ド・ラカーズ・デュティエ(Henri de Lacaze-Duthiers)がロスコフ生物学研究所を創設した。1883年、ロスコフとモルレーを結ぶ鉄道が開通した。 1969年、バ島に向かう船への搭乗橋が完成し、干潮時の乗船が可能になった。1972年、ブロスコン港からカーフェリーがイギリスに初めて出航した。 人口
(参照元:1999年までLdh/EHESS/Cassini[9]、2004年以降INSEE[10]) 経済1999年の調査による町の就業人口は1,276人である。 就業人口のうち、11%(144人)は失業者[11]、35%(451人)は小売業者[12]である。就業先は、健康施設や観光業、ロスコフ生物学研究所、農業、漁業、フェリー会社などである。 文化ブルトン語2008年11月4日、ブルターニュでのブルトン語の日常使用を促進する憲章 Ya d'ar brezhoneg(ブルトン語への賛同)(fr)への参加が、市町村参議会において可決された。2013年の新学期には、50人の生徒が公立のバイリンガル(フランス語とブルトン語)クラスに就学した。それは、町の初等教育に登録された生徒数の21.4%である[13]。 行事
文化遺産
交通
姉妹都市脚注出典
|