ロシア帝国国家資産省
ロシア帝国国家資産省(ロシアていこくこっかしさんしょう、ロシア語: Министерство государственных имуществ Российской империи、略称:МГИ、ラテン文字転写の例:Ministerstvo gosudarstvennykh imushestv Rossiyskoy imperii、略称:MGI)、または、ロシア帝国国有財産省(ロシアていこくこくゆうざいさんしょう)は、ロシア帝国の官庁。ロシア帝国政府が保有した土地やその他の国有財産、特に農奴解放令以前の国有地、国有農場で働く国有地農民(農奴)を支配、管理した[1]。 沿革・歴史1802年にロシアでそれまで行政官庁として存在していた参議会制から省庁制が導入された際、国家資産、国有財産の監督権限は独立した一省には無く、これらの権限は内務省と大蔵省がそれぞれ担当していた。1811年から政府資産の管理は大蔵省国有財産局(部)と、1836年に設立された皇帝官房第五部とによって担当された。その後起きた全国的な凶作と農奴制の見直しに対応すべく、これらの件を担当する独立した一省庁の設置が検討された。また同時にこの省には、タヴリダ県の土地の再配分とジャガイモ栽培を中心とする農業の多角化に対処することも求められた[2]。 創設と拡張1837年12月26日、国家資産省が正式に発足した。1843年には森林局(林野局)が森林管理部隊と共に設置された。1845年農業局がはじめて設置され、1848年から1856年と1874年から1881年までは、政府が所有する馬の育成施設も管轄した。1857年クリミア・タタール人と複数のノガイ人のミルザ(ミールザー、またはモルザ、ノガイの支配者の称号)が、かつて先祖がエカテリーナ2世によって所領を勅許されたことを根拠に、所有地の拡大を請願した。この際、国家資産省はクリミア・タタール人やノガイ人の先祖が勅許を受けていたことを認定したが、勅許が長く放置されており無効であると結論付けた。結局危機に直面したノガイ人はオスマン帝国への移住を許可され、1859年から1860年の間に約3万5000人が移住することとなった[2]。1873年から1905年まで、国家資産省には、山地局が大蔵省から移管された。さらに省内に科学委員会を設置して園芸、農業経済、農業試験に関する専門機関とした[1]。 再編1894年3月21日、国家資産省は、農務・国家資産省(農業・国家資産省)に改組された[3]。1905年5月、国家資産省は組織・権能を見直され、土地利用・農業総局に再編された。1900年代初頭には大臣会議議長となったピョートル・ストルイピンのストルイピン改革が実施され、総局は農業改革を実施した。1915年10月には総局は農務・国家資産省に再度、改称した。 所管国家資産省は、以下の分野を所管するとされた。
1858年には、国家資産省管轄化の国有地農民は約1900万人を数えるに至った。そしてそれはロシア帝国の総人口の半数を占めるに至った[4]。 農務・国家資産省は、ロシア帝国における山林、山地資産に関する主要な監督官庁であった。特に同省山林局(山地局)は強力な権限を有していた。このほか山林行政に関する機関には山林(山地)評議会(ロシア語: Горный совет)があり、これは山林・山地に関する科学的委員会であり地方山林・山地を管轄していた[5]。 大臣初代国家資産大臣はパーヴェル・キセリョフ伯爵である。キセリョフ伯は開明的な貴族、軍人として知られ、1828年、露土戦争でロシア軍が占領したワラキア、モルダビア(モルダヴィア)両地方の総督時代に国家組織法を制定し、積極的な施策を行い、帰国後は農奴解放計画を立案した人物でもあった。国家資産相として1837年から1856年まで在職した。この他、歴代の国家資産大臣として著名な人物としては、1872年から1879年までこの地位にあったピョートル・ヴァルーエフ(ワルーエフ)がいる。内務大臣を経て、国家資産大臣を務め、1879年から1881年まで大臣会議議長として閣僚の首座にあった。1837年から1917年まで計18名が大臣を務めた。 歴代大臣
機構・組織国家資産省には、一時的なものも含めて以下の機構・組織が置かれた[1][6]。
国家資産省の本省庁舎は、帝都サンクトペテルブルクの聖イサーク広場に面したボリシャヤ・モルスカヤ通り42番にあった[7]。 関連項目脚注
外部リンク
|