レイナルド・アーン
レイナルド・アーン・デ・エチェナグシア(Reynaldo Hahn de Echenagucia, 1874年8月9日 - 1947年1月27日)は、ベネズエラの首都カラカスに生まれ、フランスで活躍した作曲家。 父は同国の外交官を務めるドイツ系ユダヤ人、母はスペインのバスク人であった。外交官の父は音楽に造詣が深かった。レイナルド3歳のとき家族共々パリに移り住む。 生涯1885年11月、パリ音楽院に入学した。マスネやサン=サーンスに師事し、当時より大家として知られたマスネは彼に特別に目をかけた。サロンにはマスネと共に美しい巧みな歌を作曲する天才少年の姿が頻繁に見られるようになった。 1887年今日最も有名な「私の詩に翼があったなら」(Si mes vers avaient des ailes)を作曲。15歳でアルフォンス・ドーデに劇音楽の作曲を依頼されるほどであった。ドーデ(Daudet, Alphonse 1840-1897)は《アルルの女》を書いたすでに有名な作家であった。フランスでは現在もフォーレと共に愛唱される彼の歌曲は、ほとんどが20歳以前の作品であり、採用された詩はヴェルレーヌ、ユゴー、ゴーティエ、ルコント=ド=リール、バンヴィルらに及んだ。アーン少年はサロンにて師匠マスネやフォーレ、シューベルトの歌曲をピアノで弾き歌いをした。 1894年の時3歳年長のマルセル・プルーストと出会い、以後交友関係は生涯続いた。マスネに生涯に渡る庇護を受けた彼は、後年オペラ指揮者としても活躍した。 1912年、フランスに帰化し、その後生国ベネズエラに戻ることはなかった。翌年フランス陸軍に入隊し、1918年まで前線に配属された。1918年陸軍省所属になり、電報翻訳課(bureau du Chiffre)担当。当時、アメリカの文化的・言語的浸透にイライラしていた。 1934年から1945年フィガロ紙の音楽批評を担当、1945年にパリのオペラ座の監督に就任した。 ピアノ協奏曲、ピアノ曲「ソナチネ」、歌曲約125曲、弦楽四重奏曲2曲、ピアノ五重奏曲、オペレッタ、バレエ音楽、劇付随音楽などを作曲したが、もっぱら「私の詩に翼があったなら」が有名である。 歌曲の自作自演および、ビゼーやシャブリエなどの歌曲の録音を残したが、ピアノ伴奏と共に数曲自ら歌を披露しており、CD化もされている。 作品
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