ルーマニアの歴史
ルーマニアの歴史を以下に記述する。ルーマニア(Romania)は「ローマ人の国」を意味するその国名からわかるように、バルカン半島におけるラテン人が形成した国である。だが、周辺のスラブ人と同様に正教会をはじめとするビザンティン文化を受け入れたことや、オスマン帝国、ハプスブルク帝国の影響下に置かれ、長らく独自の民族国家が樹立できなかったのもルーマニアの歴史の一つの側面と言える。また冷戦時期の大統領ニコラエ・チャウシェスクによる共産独裁体制と、1989年に起こった一連のルーマニア革命でも知られる。 古代・ダキア人・ローマ化・異民族支配バルカン半島の東北部のこの地には、旧石器時代には人の定住した痕跡があり、石器や祭祀に使用されたと思われる人形などが発掘されている。紀元前2000年頃に、トラキア人から派生したダキア人が住み始め、紀元前514年のペルシア戦争では、ペルシア王ダレイオス1世と戦い、その勇敢さをヘロドトスが記録している。紀元前60年頃には、ダキア人は統一国家を成立させた。2世紀の始めには、ローマ帝国のトラヤヌス帝が、101年から102年と、105年から106年の2度に渡るダキア戦争に於いてダキア王デケバルスを下し、ドナウ川以北でローマ帝国の唯一の属州となる属州ダキアが置かれた。 ローマの属州になるとローマ人の植民地化が進められ、ダキア人はローマ人と混血しローマ化が進み、これが今のルーマニア人の直接の祖先となる。さらに、キリスト教がこの地域にもたらされることになり、2世紀から3世紀にはキリスト教が普及する。ルーマニアでは聖アンドレがダキアにキリスト教を伝えたとされている。 271年、ローマ帝国はダキアを放棄すると共にゲルマン系の西ゴート族に移譲、西ゴート族支配下となる。378年からはフン族の西進によって西ゴート族がイベリア半島へと移り、その後のフン族の四散によってスラヴ系民族の移住が進み、更にブルガール人が1000年ごろまで支配した。このように異民族の侵入・支配が続くものの、ローマ人(ラテン民族)の特色は残った。 中世→詳細は「中世におけるルーマニア」を参照
10世紀には、各地に小国がいくつか成立し始め、ワラキア、トランシルバニア、モルダヴィア3カ国に収斂されていく。そして、1054年の大シスマの時には、ルーマニアの3カ国は東方教会に組み込まれていくことになる。そして、このうちトランシルバニアは、早くからカトリックを奉じるハンガリー王国の支配下に入り、さらに、1310年にはアンジュー家、次いでハプスブルク家の支配を受けた。この地域がルーマニアに復帰するのは20世紀初頭の1918年である。残るワラキア、モルダヴィアは、13世紀にはタタール人に征服された。14世紀にはタタール人を退け、ワラキア公国とモルダヴィア公国が成立。しかし、周辺からハンガリー王国、ポーランド王国、オスマン帝国などの脅威にさらされ、1415年にはワラキア公国がオスマン帝国の宗主下に入った。なお、ワラキアでは吸血鬼や串刺し公と悪評されたヴラド・ツェペシュが、オスマン帝国と度々戦っている。彼は少なくとも現代のルーマニア人からは、オスマン帝国の侵略から守った英雄として捉えられている。一方モルダヴィア公国は、からくもオスマン帝国の支配から免れ、シュテファン大公の時代[1]にはオスマン帝国を破ることもあったものの、16世紀には自治を条件にオスマン帝国の支配下におかれることになった。 東方問題の中での近代化と独立1699年のカルロヴィッツ条約以降、この地域はオーストリア帝国とロシア帝国の影響を強く受けることになった。1821年、ギリシャ独立戦争の嚆矢としてトゥドル・ウラジミレスクによってワラキア蜂起が勃発したが、これはオスマン帝国によって鎮圧された。 19世紀にはロシアが占領したが、オスマン帝国の宗主下でワラキア、モルダヴィアの連合公国が成立。1859年にアレクサンドル・ヨアン・クザが両公国の公となり、1861年にルーマニア公国へと統合された。しかし保守貴族が反発しクザは退位させられた。1866年には新憲法が起章され、ドイツのホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家からカロル1世が迎えられた。カロル1世は国内の近代化を推進し、1877年の露土戦争に参戦。この年の5月9日に独立を宣言し、オスマン帝国と独立戦争を展開。翌年のサン・ステファノ条約とベルリン協定で列強の承認をうけた。1881年には、カロル1世は国王に即位し、ルーマニア王国が樹立された。 「大ルーマニア」の成立と社会主義政権の成立→詳細は「第二次世界大戦下のルーマニア」を参照
第一次世界大戦では1916年8月27日に連合国側で参戦した。ルーマニア軍はトランシルヴァニア地方の併合を目指してオーストリアに進撃したものの、旧態依然とした体質と敵ドイツ軍のエーリッヒ・フォン・ファルケンハイン、アウグスト・フォン・マッケンゼンらの奮戦により、開戦からたった3ヶ月後の1916年12月6日に首都ブカレストを陥落させられた。休戦後の1918年12月1日には、ブコヴィナ、トランシルバニア、ドブロジャ、ベッサラビアを獲得し、大ルーマニアを実現させた[2]。 第二次世界大戦では、独ソ不可侵条約を受けてホルティ政権下のハンガリーがトランシルバニアに進駐。また、スターリンのソ連もルーマニアに侵入し、ベッサラビアとブコヴィナを占領した。このような領土喪失に無為だった国王カロル2世に国民の不満は高まり、王政廃止の原因となる。その後、ルーマニアはファシズム団体鉄衛団が政権獲得後枢軸国について戦ったが、ソ連軍侵攻により、1944年に政変が起こり連合国につき(1944年のルーマニア革命)、ナチス・ドイツと戦端を開いた。戦後、ベッサラビアとブコヴィナをソ連に奪われ、ソ連軍の圧力の下、 1947年12月30日、王政の廃止と人民共和国宣言が行われた(ルーマニア人民共和国の成立)[3]。 →詳細は「ソ連によるルーマニアの占領」を参照
チャウシェスク独裁体制とルーマニア革命1965年にはチャウシェスクが指導者の地位につき、国号をルーマニア社会主義共和国へ変更。1974年には大統領に就任し、独裁体制をしいた。その間、アメリカ合衆国、西ヨーロッパ、中華人民共和国と外交関係を交わし、「東欧の異端児」と呼ばれるようになった。急速で過度に重工業化を目指し、西側からの技術の導入や機械の輸入で債務を膨張させた。対外債務は飢餓輸出の結果完済したものの、「国民の館」と称する豪奢な宮殿を造営するなどの奢侈にはしったため、ルーマニアの経済は疲弊していった。ルーマニアには石油が埋蔵されていて資源面で優位なことが、東西冷戦、中ソ対立においても、独自の立場の維持を可能にした。しかし、これはルーマニアをチャウシェスクの独裁国家に変質させる要因にもなった。 1977年3月4日、ブカレストの北方約100kmを震源とするマグニチュード7.0から7.5の地震が発生。多数の建物が倒壊して死傷者が出た。ブカレスト市内でも少なくとも十カ所のビルが倒壊したことを駐ルーマニアのアメリカ大使館員が報告している[4]。同年3月9日、ルーマニア共産党政治執行委員会は、同日時点で死者が1357人、重軽傷者10396人、被災家屋2万戸超に達していることを明らかにしている[5]。 ルーマニア革命ソ連にゴルバチョフが登場しペレストロイカをはじめると、1989年にベルリンの壁の崩壊に連なった東欧の民主化の波は、ルーマニアにも波及した。ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアなど、東欧諸国が無血で民主化を成し遂げる中、チャウシェスク大統領は権力の保持を企図したため、暴動が発生。ルーマニアだけは、流血の革命[6]による民主化となった(1989年のルーマニア革命)。 1989年12月16日に、ルーマニア西部の都市ティミショアラでの牧師強制連行事件に対し、市民は抗議運動を起こし、当局はこれの鎮圧に乗り出したが、死者の発生が抗議運動を過熱化させる結果を招いた。国民のチャウシェスク独裁への不満は一挙に噴出し、暴動は首都ブカレストを含むルーマニア全域に広がった。12月22日にはチャウシェスクは全土に戒厳令をしき、国軍による混乱鎮圧に着手する。しかし、国軍は大統領の命令を拒否し国民に合流。彼らと治安部隊との武力衝突が、首都を含む各地で繰り広げられた。ブカレストでは、市民が共和国広場に押し寄せ、更に共産党本部、放送局を占拠。窮地に陥ったチャウシェスクは妻エレナと共にヘリコプターで脱出を試みるが失敗、身柄を拘束されてしまう。これを受けて、暫定政権として救国戦線評議会が結成され、数日で実権を掌握。事実上の政府となった。同評議会は議長に、イオン・イリエスクを選出。12月25日には、チャウシェスク夫妻は即決裁判で銃殺刑となった。その様子は映像で世界中に配信され、「ベルリンの壁の崩壊」の場面と並び、東欧民主化を国際社会に見せ付けることになった。 革命以後1992年の救国戦線評議会の党大会では、内部抗争の結果分裂し、同年9月には大統領選、上下院選挙が行われイリエスクが大統領に就任。その後、民主化はされたが、高失業率や経済成長の停滞で前途は多難なものとなり、今も旧東欧圏では遅れをとっている。また、トランシルヴァニア地方の少数民族であるハンガリー系住民との民族問題を抱えている。2007年、ルーマニアは欧州連合(EU)に加盟した。 参考文献
脚注
関連項目 |