ルクセンブルク=リニー家ルクセンブルク=リニー家(独: Haus Luxemburg-Ligny)またはリュクサンブール=リニー家(仏: Maison de Luxembourg-Ligny)[1]は、フランス貴族の家系。14世紀から15世紀前半にかけて神聖ローマ皇帝を出したリンブルク=ルクセンブルク家の傍系である。本家が1437年に断絶した後も、17世紀まで存続した。 歴史リニー家は、ルクセンブルク伯ハインリヒ6世の弟にあたるワレラン1世(1288年没)が、母方から相続したリニーに本拠を置いたことで始まった。ハインリヒ6世伯の嗣子ハインリヒ7世が神聖ローマ皇帝となり、その一族が皇帝家およびボヘミア・ハンガリー王家として中欧諸国に拠点を移したのに対し、リニー家の当主たちは北フランスの領主の地位に留まったものの、近隣領主の女子相続人との結婚を通じて所領を拡大した。ワレラン1世の曾孫ギー(1370年没)は、結婚を通じて1360年にサン=ポル伯領を相続し、1364年にはフランス王からリニー伯の称号を授けられた。ギーの息子のうち、長男のワレラン3世(1415年没)は1412年にフランス大元帥に任命され、下の息子のジャン(1397年没)は妻方からブリエンヌ伯領およびコンヴェルサーノ伯領を相続した。 ブリエンヌ伯ジャンの3人の息子たちは百年戦争においてブルゴーニュ公国およびイングランドと密接な関係を持ち、彼ら兄弟の1人リニー伯ジャン2世は1425年にイングランド占領地域に入ったギーズ伯領を与えられた。ブリエンヌ伯ジャンの嫡孫であるサン=ポル伯ルイ(1475年没)はリニー家の輩出した2人目のフランス大元帥だった。サン=ポル大元帥ルイは一族が獲得した数々の伯爵領をまとめて相続した人物で、自らも結婚によりソワソン伯領とマルル伯領を入手した。しかし彼は他の有力諸侯やイングランド王エドワード4世と結んでフランス王ルイ11世を脅かしたため、大逆罪で処刑され、所領の多くを没収された。リニー家は1475年のサン=ポル大元帥没落以降二度と勢威を回復出来ず、いったん没収された諸伯爵領の多くは返還されたものの、リニー家の所領は分割相続や女子相続に伴う他家への譲渡により分散していった。 サン=ポル大元帥の玄孫フランソワ(1613年没)は、1576年にピネー=リュクサンブール公爵位を与えられ、同爵位は1581年にフランス王国同輩公の地位を認められた。フランソワの息子アンリ(1616年没)は、皇帝を幾人も出したルクセンブルク家の後裔であることを強調すべく、ピネー公爵位をリュクサンブール公爵(Duc de Luxembourg)と称するようになった。アンリには男子が無かったので、彼の死と共にルクセンブルク=リニー家の正嫡は絶えたが、ピネー=リュクサンブール公爵位は、1661年にアンリの外孫マドレーヌ・ド・クレルモン=トネールと結婚したフランソワ・アンリ・ド・モンモランシーに受け継がれた。モンモランシーはリュクサンブール元帥(maréchal de Luxembourg)の通称で知られている。 フランス王がリニー家の者に与えた公爵位はピネー公爵位だけではない。サン=ポル大元帥の弟フィエンヌ領主ティボー(1477年没)の曾孫にあたるセバスティアン(1569年没)が、1566年に同輩公のパンティエーヴル公爵位を授けられている。しかしセバスティアンも男子の無いまま死去し、公爵位は娘婿のメルクール公フィリップ・エマニュエル・ド・ロレーヌに引き継がれた。 宮殿初代ピネー公フランソワは、1546年にパリ南郊に田舎風の別荘を建設した。これは現在の小リュクサンブール宮殿(小宮殿)であり、プチ・リュクサンブール(Petit Luxembourg)と呼び習わされている。フランソワは1612年、この別荘と付属の地所をフランス王ルイ13世の母后マリー・ド・メディシスに売却した。マリー王太后は1615年から1620年にかけ、地所内にさらに大規模な宮殿を建設した。マリーの建設した大宮殿がいわゆるリュクサンブール宮殿と付属のリュクサンブール公園であり、グラン・リュクサンブール(Grand Luxembourg)と呼ばれる。大宮殿は元老院の議事堂として、小宮殿は元老院議長の公邸として、それぞれ使用されている。 著名な人物上記の他、リニー家には以下のような人物がいる。
系図
脚注
参考文献
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