ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテル
ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテル (ラテン語: Lucius Caecilius Metellus Denter、紀元前320年 - 紀元前283年) は、共和政ローマ時代の軍人、政治家。 略歴紀元前284年には執政官に就任[1]、翌年はプラエトルを務めた[2]。ポリュビオスによれば、10年ぶりにガリア人が軍を率いてアッレティウム(現アレッツォ)を包囲した。救援に赴いたローマ軍はガリア軍を攻撃したが敗北し、デンテルは命を落としたという(アレティウムの戦い)。デンテルの後任にはマニウス・クリウス・デンタトゥスが選出され、捕虜交換を申し出たものの断られたため、ローマ軍は彼らを攻撃して彼らの領地から追い出したという[3][4][5][6]。 デンテルはおそらく紀元前251年と247年に執政官を務めたルキウス・カエキリウス・メテッルスの父親であり、後者は Caecilius L. f. C. n. Metellus と認知された[7]。この L. f. C. n. が「ルキウスの息子でありガイウスの孫」という意味であれば、デンテルの父親は恐らくガイウス・カエキリウス・メテッルスであろう。別の解釈では、恐らく紀元前316年に護民官を務めたであろう、クイントゥス・カエキリウスの息子か甥という事になるが、ブロートンの The Magistrates of the Roman Republic にも、『ギリシア・ローマ伝記神話辞典』にも、それらしき人名は見当たらない[8]。 関連項目脚注参考文献
外部リンク
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