リュグマジョー
リュグマジョー(カタルーニャ語: Llucmajor: カタルーニャ語発音: [ʎuɡməˈʒo, ʎumːəˈʒo], スペイン語: Lluchmayor)は、スペイン・バレアレス諸島州のムニシピ。マヨルカ島南部に位置する。公式名はカタルーニャ語名のLlucmajor。 地理リュグマジョーの自治体はパルマ・デ・マヨルカの南東に接している。リュグマジョー地区の北東には特徴的な形状のランダ山があり、この山は13世紀の哲学者・ラモン・リュイが改心後に苦行を行ったことで知られている[1]。自治体の面積は327.33km2であり、バレアレス諸島州でもっとも面積の大きな自治体である。2015年の人口は34,618人。 地区自治体名と同名のリュグマジョー地区、サラナール地区、カーラ・ブラーバ地区、カーラ・ピ地区など16の地区からなる。中心となる地区はリュグマジョー地区であり、自治体庁舎が置かれている。リュグマジョー地区は地中海から約15km内陸にあり、パルマ・デ・マヨルカとマヨルカ島東岸のサンタニーを結ぶMa-19号線沿いにある。サラナール地区、サ・トーレ地区、バディア・グラン地区、バディア・ブラーバ地区などは地中海岸にあり、サラナール地区はヨットハーバーを有する。
歴史リュグマジョーは「大きな森」を意味するラテン語の「lucus maioris」に由来するとされる[2]。リュグマジョーの南には先史時代の遺跡があり、この遺跡は青銅器時代の活動で知られている[2]。鉄器時代にはマヨルカ島有数の集落があり、タライオティック文化が栄えた[2]。その後はフェニキア人、ギリシア人、カルタゴ人、ローマ人がこの地域で影響力を有した[2]。マヨルカ島は902年にイスラーム教徒のコルドバ首長国の支配下に入り、モントゥイリの町の傘下でリュグマジョーにはイスラーム教徒の農場が存在した[2]。 1229年にはキリスト教徒のアラゴン王ハイメ1世がマヨルカ島を征服。1259年にはリュグマジョーに初めて教会が建設された。1300年にはマヨルカ王ジャウメ2世によって「町」の称号が与えられた。1349年にはアラゴン王ペドロ4世がマヨルカ王ジャウメ3世を破り、マヨルカ王国の独立は終わりを告げた。1349年10月25日に起こったリュグマジョーの戦いでは、ジャウメ3世がリュグマジョー北東の戦場で殺されている。当初、ジャウメ3世はリュグマジョーの教区教会に埋葬されたが、今日ではパルマ・デ・マヨルカのパルマ大聖堂に埋葬されている。 1543年、カルロス1世はリュグマジョーに「市」の称号を与え、水曜日と金曜日に市場を開く権利を与えた。14世紀から18世紀にはマヨルカ島の沿岸に海賊が頻出し、いくつもの物見櫓が建設された[2]。17世紀にはサン・ボナベントゥーラ修道院が建設され、フランシスコ会によって別の修道院も建設された[2]。1781年にはサン・ミケル教区教会の建設が始まり、イシドロ・ゴンサーレス・ベラスケスが設計した[2]。 1916年10月3日の王令ではアルフォンソ13世によって「市」の称号が与えられた[2]。1916年10月には新たな市場が建設され、パルマとサンタニーを結ぶ鉄道が開通してリュグマジョーにも駅が設けられた[2]。同年11月にはこの地域初の発電所「エル・ポルベニール」が完成した[2]。1964年にはパルマとサンタニーを結ぶ鉄道が廃線となり、リュグマジョー駅も廃止された。 経済20世紀最初の10年間には多くの土地が分割され、それらの土地にはアーモンドの木が植えられた[2]。20世紀には靴製造の中心地として発展したが、今日では靴製造は実質的に消滅しており、その他の工業が主体となっている[2]。バレアレス諸島やカナリア諸島などで定期便を運航していたエア・ヨーロッパは、リュグマジョー市街地の2km西にある工業地域に本社を置いている[3][4]。この工業地域はMa-19号線に直結しており、ワインの卸売業者であるムンディドリンクス、自動車修理のマヨルカ・カルテックなども立地している。 行政
出身者
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