リッカルド・ブロスキリッカルド・ブロスキ(Riccardo Broschi、1698年? - 1756年)は、イタリアの作曲家。オペラ作曲家だが現存する作品は少なく、作品よりもカストラートファリネッリの兄として知られる。 生涯ナポリで生まれた。父のサルヴァトーレは音楽家だったが1717年に没した[1]。 1725年にナポリのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会 (it:Complesso degli Incurabili#Santa Maria del Popolo) の祝祭のために教会音楽を作曲した、というのが知られるかぎり最古のブロスキの作曲活動である[1][2]。同年ナポリのフィオレンティーニ劇場で彼の唯一のオペラ・ブッファである『聾の老女 (La vecchia sorda)』を上演した[1][2]。 1726年から弟のカルロとともにイタリア内外を旅行して作曲を行い、弟のほかニコロ・グリマルディ、フランチェスカ・クッツォーニ、ヴィットーリア・テージ、ファウスティーナ・ボルドーニ、アンジェロ・マリア・アモレヴォーリ (Angelo Maria Amorevoli) といった当時のトップ歌手が歌って成功した[1]。 1734年10月に弟がロンドンでハッセ『アルタセルセ』によってデビューしたとき、リッカルド・ブロスキは彼のためのアリアを作曲し、とくに第3幕のアリア「私は揺れる船のように (Son qual nave ch'agitata)」を聞いた客は呆然となったと伝えられる[1]。 1736年秋にヴュルテンベルク公カール・アレクサンダーに招かれてシュトゥットガルトの宮廷作曲家に就任したが、ヴュルテンベルク公は翌年没して宮廷のイタリア・オペラ座は解散してしまった。ブロスキはナポリに戻り、今はマドリードでスペイン王フェリペ5世に仕えている弟の力添えによって(当時ナポリ王国はフェリペ5世の子のカルロスに支配されていた)、ナポリの王室の宮廷楽長などの職を得ようと画策したが、結局うまくいかなかった[1]。 ブロスキはマドリードの弟のもとへ行き、そこで1756年に没した[1]。 作品ウィーンのオーストリア国立図書館およびウィーン楽友協会図書館がいくつかの筆写譜を所蔵しているが、それ以外の音楽は失われた[1]。
1994年の映画『カストラート』では、『イダスペ』の2つのアリア「忠実な影よ私も (Ombra fidele anch'io)」、「戦場のあの勇士 (Qual guerriero in campo armato)」、およびハッセ『アルタセルセ』のための2つのアリア「私は揺れる船のように (Son qual nave ch'agitata)」、「もし私の唇を信じないなら (Se al labbro mio non crede)」(ただし器楽)が使われている[3]。
影響アントニオ・ヴィヴァルディのオペラ『バヤゼット』(1735年)はパスティッチョで、その中の有名なアリア「戦場のあの勇士 (Qual guerriero in campo armato)」はもともとブロスキが弟のために書いた曲である[4]。 ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルのオペラ『アルチーナ』(1735年)の台本はブロスキが1728年にローマで上演したオペラ『アルチーナの島 (L'isola d'Alcina)』を元にしている。 脚注
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