ファウスティーナ・ボルドーニファウスティーナ・ボルドーニ(Faustina Bordoni、1697年3月30日 - 1781年11月4日[1])は、イタリアのメゾソプラノ歌手。 ヴェネツィアを中心に活動していたが、1720年代後半のロンドンでオペラのプリマ・ドンナとして、ライヴァルのフランチェスカ・クッツォーニと争った。その後は作曲家のヨハン・アドルフ・ハッセと結婚し、ハッセ作品の主要な歌手として活躍した。 生涯ファウスティーナはヴェネツィアに生まれ、M.ガスパリーニに学んだ。早くから「プファルツ選帝侯の宮廷ヴィルトゥオーザ」の称号を得ていた[2]。1716年にヴェネツィアのサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場においてカルロ・フランチェスコ・ポラローロ (Carlo Francesco Pollarolo) の『アリオダンテ』でデビューした[1][2]。その後1725年までヴェネツィアを本拠として歌った[1]。ほかにイタリア各地、および1724年以降はミュンヘンとウィーンでも歌って成功した[2]。 ロンドンでオペラの興業を行っていた王立音楽アカデミーではフランチェスカ・クッツォーニがプリマ・ドンナとして歌っていたが、2人めのプリマ・ドンナとしてファウスティーナと契約を結んだ[3]。ファウスティーナは1726年5月にヘンデルの『アレッサンドロ』でデビューした。ファウスティーナはクッツォーニとは対照的だった。風采があがらないが美声に恵まれ、悲劇のヒロイン向きだったクッツォーニに対して、ファウスティーナは容貌が優れ、声はクッツォーニよりも低く、力強い役割を得意とした[4]。この2人はすでに1718年にヴェネツィアで共演しているが、その頃から犬猿の仲で、台本作家や作曲家はこの2人を平等に扱うために苦労を重ねる必要があった[5]。聴衆もクッツォーニ派とファウスティーナ派に分かれて争った[6]。1727年6月のボノンチーニの『アスティアナッテ』の上演中にファン同士が争い、劇場は混乱に陥った[6]。 カストラートのセネジーノ、クッツォーニ、ファウスティーナという3人のスター歌手に対する報酬、およびクッツォーニとファウスティーナの反目はアカデミーが破綻に至る大きな原因であった[3]。アカデミーは1728年6月までで公演の継続を断念し[7]、歌手たちはロンドンを去った。 ヴェネツィアに戻った後、ファウスティーナは1730年にハッセと結婚した[2]。ファウスティーナはハッセのオペラ『ダリーザ』(Dalisa)で歌った[8]。この後、ファウスティーナはしばしば夫の主要な作品で歌うことになった[2]。 翌1731年に夫婦はドレスデンへ行き、夫のハッセはザクセン選帝侯の宮廷楽長に就任した[8]。ファウスティーナもドレスデンの宮廷歌手として仕えた[2]。しかし夫妻はドレスデンに定住していたわけではなく、しばしばイタリア各地を巡ってオペラを公演して名声を得た[8]。1751年に舞台から引退した後も宮廷歌手の称号は維持し、年金を支給された[2]。 1763年にザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世が没すると、夫妻はドレスデンを去ってウィーンに移った[2][8]。 1775年に生まれ故郷のヴェネツィアに戻り、1781年に没した[2]。 脚注
参考文献
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