ラヴォール (タルヌ県)
ラヴォール (Lavaur、オック語:La Vaur)は、フランス、オクシタニー地域圏、タルヌ県のコミューン。アルビ、トゥールーズ、カルカソンヌを結んだ三角形の中に位置するラヴォールは、ペイ・ド・コカニュ地方の丘陵、アグー川のほとりに位置している。人口およそ11,000人を持つ『ペイ・ド・コカニュ地方の主都』であり、ラヴォール都市部の中心である。 地理ラヴォールは、トゥールーズの東北東、ガヤックの南、カストルの西に位置している。コミューンは面積の西側がオート=ガロンヌ県と接している。町はアグー川の左岸にたっており、またララグー川がコミューンを横断する。 交通
由来ラヴォールはガリア語で『隠れた流れ』または『渓谷』を意味するvoberoから生じている。この語源は、オック語ではvaurとなり、この土地の地名学に対応する。 歴史1025年、この小さな要塞の町がいくつかの文章で説明された。1035年にはヴォロの城(castro de vauro)として初めて記された。古いカストルムはこの古い城の北側に存在しなければならない。1065年、ラヴォールのソヴテ(fr、教会の周りをいくつかの石柱で区切った避難区域。教会の聖域と同じく、ソヴテに逃げ込んだ者には教会の庇護が与えられた)は、コンクのサント・フォワ修道院の修道士たちに授けられた。1098年、トゥールーズ司教イザルンがトミエールのサン・ポンス修道院の修道士たちに提供した小修道院の敷地内に、聖アラン教会が建設された。 1182年2月、トゥールーズ伯はベジエおよびカルカソンヌ子爵ロジェ・トランカヴェルの町ラヴォールを攻略した。トゥールーズ伯レーモン5世は、クレルヴォー大修道院長アンリ・ド・マルシヤックに助けを求めた。彼らは、ロジェ・トランカヴェルの妻アデライード(レーモン5世の娘である)の持参金であったラヴォールを包囲した。一度都市が奪われてしまえば、そこで暮らすカタリ派信徒たちは逃げなくてはならず、レーモン5世は町を保護し続けた。
1317年9月26日、ローマ教皇ヨハネス22世は、ラヴォール司教座を創設するための教書を公布した。その後司教座は都市の重要な発展をもたらした。ラヴォール司教の長い歴史の系図には、有名な高位聖職者の名が幾人か見つけられる。百年戦争中の1369年から1370年にかけ、都市住民たちはジョン・シャンドス率いるイングランド軍を撤退させた。 1439年、国内行幸中であったフランス王太子、未来のルイ11世がラヴォールを通過した。1462年か1468年、ルイ11世はラヴォールを伯領に格上げした。1483年、シャルル8世の時代に、ラヴォール伯領は王領に戻された。恐ろしい黒死病の流行が都市に壊滅的な被害を与えた。 15世紀最後の30年間、大聖堂と対比をなす第2の司教宮殿が建設された。1450年代から1600年代まで、ラヴォールでは染料の原料となるホソバタイセイ栽培が盛んだった。 1540年、ラングドック三部会がラヴォールで開催され、ガロンヌ川と地中海をつなぐ河川交通計画が議論された(将来ミディ運河となる)。 1562年、コルドリエ会の会士たちが、ユグノーによって殺害、殉教した。1589年、ラングドックのカトリック同盟三部会は、異端者を王と認めることは決してないとラヴォールで宣誓した。1593年、ラヴォールにペニタン・ブルー兄弟会が住み着き、1600年にはペニタン・ブラン兄弟会が定着した。 1612年、ラヴォールにカプチン会の修道院が設置された。1729年、ラヴォール病院の建設が始まった。18世紀半ば、王立製糸工場が設置され、病院建物では織物工場が稼働した。1773年から1791年にかけ、アグー川にエタ・デュ・ラングドック橋が架けられた。 1930年3月2日から3日にかけ、アグー川の千年に一度の規模という洪水が発生し、町が荒廃した[1]。 ツール・ド・フランス2011では、ラヴォールは第11ステージの到着都市となった。 史跡
人口統計
参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[2]、2006年以降INSEE[3][4] 経済産業
司法未成年者を収容するトゥールーズ少年院が2007年にラヴォールに開設され、開設式典には当時の司法大臣ラシダ・ダティが出席した。フランス国内でのこの種類の施設での最初の逃亡は、2009年6月にラヴォールで起きた[5]。2013年5月11日に最新の逃亡事件が起きた。 姉妹都市参照
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