ラクソール男爵デヴォン州クリスト・セント・ジョージのラクソール男爵(英: Baron Wraxall, of Clyst St George in the County of Devon)は、連合王国貴族の爵位の1つである。1928年に保守党の政治家だったジョージ・ギブズ(英: George Gibbs)にラクソール男爵位が与えられて創設された。現在この爵位は、第4代男爵であるアントニー・ギブズ(英: Antony Gibbs)が保有している。現男爵は、父である第3代男爵ユースタス・ギブズ(英: Eustace Gibbs)の死に伴い、2017年に爵位を継承した。 ラクソール男爵家は、オールデナム男爵家や、ハンスドンのハンスドン男爵家と親戚関係にある。初代男爵の祖父ウィリアム・ギブズは、ハックス・ギブズ (初代オールデナム男爵)の父、ジョージ・ヘンリー・ギブズ(英: George Henry Gibbs)の弟に当たる。またハックス・ギブズは、初代ハンスドンのハンスドン男爵(第2期)、ハーバート・ギブズ(英: Herbert Gibbs, 1st Baron Hunsdon of Hunsdon)の四男である。 サマセット州ラクソールにあるティンツフィールドは、かつてギブズ家の邸宅であった。 ラクソール男爵(1928年創設)
現在の法定推定相続人は当代男爵・アントニーの息子、オーランド・ヒューバート・ギブズ(英: Orlando Hubert Gibbs、1995年 - )である。 ジョージ・ギブズ(初代ラクソール男爵)
初代ラクソール男爵ジョージ・エイブラハム・ギブズ(英: George Abraham Gibbs, 1st Baron Wraxall, PC、1873年7月6日 - 1931年10月28日)[1]は、英国・保守党の政治家である[注 1]。 イートン・カレッジを経てオックスフォード大学のクライスト・チャーチに進んだジョージは、アントニー・ギブズ少佐(英: Major Antony Gibbs)とジャネット・ルイーザ・メリヴェイル(英: Janet Louisa Merivale)の間に生まれた7人きょうだいで1番上の息子だった。母方の祖父はジョン・ルイス・メリヴェイル(英: John Louis Merivale)である。父方の祖父であるウィリアム・ギブズと、その父(ジョージの曾祖父)アントニー・ギブズは、貿易会社アントニー・ギブズ&サンズの共同設立者、貿易商、銀行家であった。 1906年、ジョージはマイケル・ヒックス・ビーチの後を引き継いでブリストル西選挙区 (Bristol West) 選出の庶民院議員となり、1928年まで同職を勤め上げた[1]。彼は義理の父親で植民地大臣だったウォルター・ロング (初代ロング子爵)の議会担当秘書官を務め、1917年から1921年にかけては、デビッド・ロイド・ジョージによる連合内閣で、政府の院内幹事の任に当たった[2]。1921年には王室会計局長官に任じられ、アンドルー・ボナー・ロー、スタンリー・ボールドウィン両首相の下で、1924年の中断期を挟み、1928年まで2期の任を果たしている[1][2]。1923年には枢密院の枢密顧問官に就任した。1928年、王室会計局長官などでの貢献があったことからジョージに対して爵位が与えられ、デヴォン州クリスト・セント・ジョージのラクソール男爵(英: Baron Wraxall, of Clyst St George in the County of Devon)として連合王国貴族の仲間入りを果たした[1]。ジョージはノース・サマセット義勇農騎兵団 (North Somerset Yeomanry) で大佐として働いたほか[1]、1911年にはサマセットの副統監に就任している[3]。 家族ジョージは2度結婚している。最初の妻はヴィクトリア・フローレンス・デ・バーグ・ロング(英: Victoria Florence de Burgh Long)で、ウォルター・ロング (初代ロング子爵)の娘だった。2人の間には、娘1人と息子2人が生まれたが、2人の息子はいずれも夭逝した。ヴィクトリアは2人の娘であるドリーン・アルビニア (Doreen Albinia) が6歳の1920年に病死し、ジョージは8年後に2度目の結婚をしている[1]。2番目の妻はアーシュラ・メアリー・ロウリー(英: Hon. Ursula Mary Lawley)で、彼女は後の第6代ウェンロック伯爵・アーサー・ロウリーの娘だった。2人の間には息子が2人産まれ、それぞれ第2代・第3代ラクソール男爵となっている。 ジョージは肺炎がもとで、1931年10月に58歳で亡くなった。第2代ラクソール男爵は、後妻アーシュラとの間に生まれた長男、ジョージ・リチャード・ロウリー・ギブズが継いだ。
リチャード・ギブズ(第2代ラクソール男爵)第2代ラクソール男爵ジョージ・リチャード・ロウリー・ギブズ(英: George Richard Lawley Gibbs, 2nd Baron Wraxall、1928年5月16日 - 2001年7月19日)は、英国の貴族である。普段はリチャードと呼ばれていた。 リチャードは、1931年10月28日に、わずか3歳で父のラクソール男爵位を継承した。母は先述のアーシュラ・メアリー・ロウリーであり、リチャードの名付け親は当時の王妃メアリー・オブ・テックが務めた[1][4]。またイートン・カレッジに進んだ後は、サンドハースト王立陸軍士官学校を経てコールドストリームガーズ (The Coldstream Guards) に仕官し、8年間北アフリカで任務に当たった[1][5]。さらに地元の義勇農騎兵団の任務も務めている。 1988年には邸宅のティンツフィールドで誘拐に遭い、自身の保有するBMWのトランクに7時間余り閉じ込められた[1]。『タイムズ』紙によると、リチャード自身は「やれやれ、思っていたよりもトランクには空間があったよ」("Good grief, there's more room in the back than I ever thought") と漏らしたという[要出典]。誘拐犯たちはリチャードと庭園で出くわし、1人が彼の頭を板で殴りつけ、全員で彼の金庫と家の鍵を求めた。しかし防犯アラームが作動して誘拐犯たちはパニックに陥り、リチャードを車のトランクに入れて2マイル (3.2 km)ほど離れた森林に車を乗り捨てたという。その後誘拐犯たちはリチャードの財布とクレジットカードを盗んでいった。 リチャードは未婚のまま、2001年7月に73歳で亡くなった。邸宅に1人でいたところに、喘息発作を起こして亡くなったと考えられている[1]。男爵位は弟のユースタスが継いだ。 またリチャードの死を受けて、ギブズ家の邸宅だったティンツフィールドは、ナショナル・トラストへ売却されている[6][7]。
ユースタス・ギブズ(第3代ラクソール男爵)第3代ラクソール男爵ユースタス・ヒューバート・バイルビー・ギブズ(英: Eustace Hubert Beilby Gibbs, 3rd Baron Wraxall, KCVO CMG、1929年7月3日 - 2017年5月17日)は、英国の元外交官である。2001年7月19日に、兄で先代のラクソール男爵、リチャードの死を受けて第3代ラクソール男爵となった。父と同じくイートン・カレッジからオックスフォード大学のクライスト・チャーチに進んでいる。 ユースタスは、1982年から1986年にかけて外交団副式部官を務めた[8][9]。またバンコクやリオ・デ・ジャネイロ・ウィーン・カラカスなど、外交団として世界各地に赴任している[10]。2017年5月17日に亡くなり[11]、爵位は息子のアントニー・ヒューバートが継承した。
関連項目脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
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