PERGURUAN TINGGI
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BIDANG ILMU
TAHUN TERBIT
KEYWORD - KATA KUNCI
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ヨーロッパ人のアジア進出年表
1459年ごろに完成した
フラ・マウロの世界図
。当時の通例に従い、南を上にしている。16世紀の地理学者
ジョバンニ・バティスタ・ラムージオ
は、この地図に
マルコ・ポーロ
がもたらした「
キタイ
」(中国)の知見が反映されていると指摘している。
ヨーロッパ人のアジア進出
年表
[
1
]
。
古代・中世のアジア進出
古代
紀元前515年:
カリャンダのスキュラクス
が、
アケメネス朝
の
ダレイオス1世
の命を受けて、
インダス川
を通り
インド洋
を渡って
エジプト
に至る航路を探索した。
紀元前330年:
マケドニア王国
の
アレクサンドロス3世
(大王)が、
西アジア
から
中央アジア
の一部、
インド
の一部に至るまでを征服した。
紀元前300年:
セレウコス朝シリア
の
セレウコス1世
がインドに侵攻したが、
マウリヤ朝
の
チャンドラグプタ
に敗れた。その後、両者は同盟を結んだ。
紀元前250年 – 紀元前120年: ギリシア系国家
バクトリア
が、
フェルガナ盆地
(
アレクサンドリア・エスハテ
)、
トランスオクシアナ
(
アレクサンドリア・オクシアナ
)、
パンジャーブ
(
インダスのアレクサンドリア
)にまたがって存在していた。
紀元前180年 – 紀元後10年: ギリシア系国家
インド・グリーク朝
が、現在のアフガニスタンの一部、パキスタンの一部、北西インドにまたがって存在した。
紀元前118年以前: ギリシア人の航海者
キュジコスのエウドクソス
が、
プトレマイオス朝
エジプトの
プトレマイオス8世
の命を受けてアラビア海を探検する。
紀元前30年 – 紀元後640年:
共和制ローマ
が
プトレマイオス朝
を倒してエジプトを征服し、インドとの交易をおこなう。帝政移行後の118年、
ローマ帝国
はエジプトを介した
香辛料貿易
を確立した。
100年 – 166年:
ローマ・中国関係
が始まる。
クラウディオス・プトレマイオス
は『
ゲオグラフィア
』の中で「黄金の半島」(マレー半島)や
メコンデルタ
の貿易港カッティガラ(
オケオ
、現
ベトナム
)、そして漢帝国の一部である
交州
にも言及している。中国側の
後漢書
にも、大秦(ローマ)から使節が到来したことが記されている。
161年:
アントニヌス・ピウス
もしくは
マルクス・アウレリウス・アントニヌス
の派遣した使節が海路で中国に到達し、
洛陽
で漢の
桓帝
に拝謁する。
2世紀: ローマ人の商人が
シャム
、
カンボジア
、
スマトラ島
、
ジャワ島
に到達。
226年: ローマの外交官もしくは商人が北ベトナムに上陸した後に
建業
に赴き、
東呉
の
孫権
に拝謁する。
中世
870年ごろのユーラシア・北アフリカの交易路
500年以前–1000年:
ラダニテ
の活躍。
ユダヤ人
商人である彼らは、
中世前期
の
キリスト教世界
と
イスラム世界
の間の貿易を独占し、遠く東方の
唐
にまで至った。
550年以前:
東ローマ帝国
の旅行家・著述家
コスマス・インディコプレウステース
が『
キリスト教地誌
』を完成させる。この地図には自ら旅した
エリトリア
、
エチオピア
、インド、
スリランカ
の知識が反映されている。
552年: 二人の僧(もしくは僧に変装した使者)が、
東ローマ皇帝
ユスティニアヌス1世
の命を受けて
ソグディアナ
を訪れ、
カイコ
を
密輸
した(
東ローマ帝国の養蚕伝来
)。これにより、ヨーロッパや
小アジア
での
養蚕
が可能になった。
568年: 東ローマ帝国の将軍
ゼマルコス
が、
サマルカンド
へ赴き
西突厥
の宮廷に至った。
639年–640年:
イスラーム帝国
が
エジプトを征服
、東ローマ帝国を介したヨーロッパ―インド貿易を遮断。
1160年–1173年:
ナバラ
出身のユダヤ教徒で
ラビ
である
トゥデラのベンヤミン
が、
シリア
、
パレスチナ
、
バグダード
、ペルシア、
アラビア半島
を旅する。
1180年–1186年:
ボヘミア
のラビである
レーゲンスブルクのペタヒア
が、バグダードを訪れる。
13世紀: シルクロードの最盛期。
モンゴル帝国
がユーラシアの大半を支配し、
パクス・モンゴリカ
のもとでヨーロッパからアジアに広がる広大な交易網が構築される。
1245年–1247年: イタリア人の
フランシスコ会
士ジョヴァンニ・ダ・ピアン・デル・カルピネ(
プラノ・カルピニ
)らが、
ローマ教皇
の施設としてモンゴルの
カラコルム
に到達する。
1245年–1248年:
ロンバルディアのアシェリーノ
、
サン=カンタンのシモン
、
ロンジュモーのアンドリュー
が、アルメニアとペルシアを訪れる。
1249年–1251年: フランスの使節が、案内役のロンジュモーのアンドリューとともにグユクに謁見する。アンドリューの弟
ギー
や
ジャン・ゴドリッチ
、
ジャン・ド・カルカソンヌ
、
ソムリエのエルベール
、
ジェルベール・ド・サンス
、それに書記のロベールやギヨーム、また名前の知られていないポワシー出身の書記がどうこうしていた。彼らは
キルギス
の北西
タラス
まで至った。
1254年:
フランドル
のフランシスコ会士
ウィリアム・ルブルック
が、中央アジアを抜けて
バトゥ
、続いて
モンケ
に謁見する。
1264年–1269年:
ニッコロー・ポーロ
と
マッフェーオ・ポーロ
の最初の中国行。1266年、彼らは
大都
(現
北京
)で
フビライ
に謁見する。
1271年–1295年: ニッコロー・ポーロとマッフェーオ・ポーロの2度目の中国行。この時にニッコローの息子
マルコ・ポーロ
も同行する。帰国後、マルコ・ポーロの20年以上にわたる中国滞在をもとに東方見聞録が著されるが、その記述の信憑性については現在でも議論が続いている。
1275年–1289年、1289年–1328年: イタリア人フランシスコ会士
ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ
が、キリスト教布教のためインドおよび元を訪れ、北京大司教・東方総主教に任じられる。ヨーロッパからの増援の聖職者を受け入れつつ布教を続け、中国で死去。
1318年–1329年: フランシスコ会士の
ポルデノーネのオドリコ
と
ジェームズ・オブ・アイルランド
が、インド・東南アジア経由で中国に至る。大都に3年間滞在した後、中央アジアを通ってイタリアに帰還した。
1321年–1330/1338年?: フランス人の
ドミニコ会
宣教師
セヴラックのヨルダヌス
が、インドと中東を旅する。1329年には
インド亜大陸
で最初のカトリック
司教座
クイロン
司教区を設立し、旅行記『ミラビリア・デスクリプタ』を著す。
1338年–1353年: イタリア人の
ジョヴァンニ・デ・マリニョーリ
らが、教皇
ベネディクトゥス12世
の使節として北京に至る。
1401年–1402年:
パジョ・ゴメス・デ・ソトマイヨール
が、
カスティーリャ王
エンリケ3世
の最初の使者として
ティムール朝
を訪れる。
1403年–1404年:
ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホ
が、エンリケ3世の二番目の使者としてティムール朝を訪れる。彼は黒海の小アジア・
トラブゾン
沿岸を東進し、南コーカサスから
テヘラン
を経由してサマルカンドに至った。
1420年–1436年: イタリア人探検家
ニッコロー・デ・コンティ
がインドと東南アジアを旅した。
1453年: コンスタンティノープルの陥落。オスマン帝国が東ローマ帝国を滅ぼし、キリスト教徒は東地中海の覇権を失う。ヨーロッパから東回りで東洋へ向かうルートは利用困難になり、大航海時代が到来する遠因となった。
1470年:
アファナーシー・ニキーティン
が、ロシア人として初めてインドを訪れる。
1471年–1479年: ヴェネツィア人の外交官
カテリーノ・ゼノ
、
アンブロージオ・コンタリーニ
、
ジョサファト・バルバロ
が
白羊朝
を訪れる。
1492年: クリストファー・コロンブスのアジアに向けた最初の西回り航海。彼自身はアジアにたどり着けなかったものの、彼の航海は他のヨーロッパ人のアジア・アメリカ進出を加速させた。
1557年–1572年: イングランド人
アンソニー・ジェンキンソン
が、カスピ海を渡り
ブハラ
やペルシアを旅する。
1580年-1585年:
コサック
の
イェルマーク・チモフェーイェヴィチ
が、
エルティシ川
右岸の
シビル・ハン国
の街
カシリク
に到達。
1583年–1591年: イングランド人商人
ラルフ・フィッチ
、ジョン・ニューベリー、ジョン・エルドレッド、宝石商のウィリアム・リーデス、画家のジェームズ・ストーリーの一行が、
レバント
から
メソポタミア
を通りインド、そして
ポルトガル領マラッカ
(現
マレーシア
)へ旅する。なお、エルドレッドは
イラク
の
バスラ
にとどまった。ストーリーは
ゴア
で
イエズス会
に入会した。
ムガル帝国
の首都
アーグラ
では、リーデスが
アクバル帝
のために働くことになり、ニューベリーはヨーロッパへ引き返した。フィッチだけは
ビルマ
経由で
マラッカ
まで至り、1591年にロンドンに帰国した。
大航海時代以降
ヴァスコ・ダ・ガマが最初の航海で利用した船(1558年の絵)
カンティーノ世界図(1502年)。東方・西方でポルトガル人が発見した内容が反映されている。
南蛮屏風(部分)
リスボン国立古美術館
本図は
狩野内膳
の落款はあるが、描法が異なり別人の作とされる
『幾何原本』に描かれたリッチ(左)と徐光啓
1497年–1499年: ポルトガル人の
ヴァスコ・ダ・ガマ
、
ニコラウ・コエリョ
、
バルトロメウ・ディアス
らが、
喜望峰
まわりで初めて海路だけでヨーロッパからインドに到達する。
1500年–1501年: ポルトガル人の
ペドロ・アルヴァレス・カブラル
らが、
ブラジル
を発見した後に喜望峰を回り、インドに到達。当初の艦隊は13隻に1500人が乗り込んでおり、バルトロメウ・ディアス、ニコラウ・コエリョ、
サンチョ・デ・トーヴァー
、
シモン・デ・ミランダ
、
アイレス・ゴメス・ダ・シルヴァ
、
ヴァスコ・デ・アタイーデ
、
ディオゴ・ディアス
、
シモン・デ・ピナ
、
ルイース・ピレス
、
ペロ・ヴァス・デ・アタイーデ
、
ヌノ・レイタン・ダ・クーニャ
らが船長であった
[
2
]
。ルイース・ピレスはブラジル到達以前にカーボベルデで分かれ、ポルトガルに帰った。
ガスパル・デ・ラモス
もしくは
アンドレ・ゴンサルヴェス
のどちらかが、ブラジル到達後にポルトガルへ引き返し、南アメリカの発見を報告した。ヴァスコ・デ・デ・アタイーデ、バルトロメウ・ディアス、シモン・デ・ピナ、アイレス・ゴメス・ダ・シルヴァの船は、喜望峰付近で遭遇した嵐により沈没した。ディオゴ・ディアスの船は途中で分かれて
マダガスカル
を発見した。彼はその後、ヨーロッパ人として初めて海路のみで
紅海
に入った。ヌノ・レイタン・ダ・クーニャ、ニコラウ・コエリョ、サンチョ・デ・トーヴァー、シモン・デ・ミランダ、ペロ・ヴァス・デ・アタイーデらはインドに到達した。この艦隊には、著述家の
ペロ・ヴァス・デ・カミーニャ
や、フランシスコ会士
エンリケ・デ・コンブラ
らが乗船していた。
1501年–?:
ジョアン・ダ・ノーヴァ
らポルトガル艦隊が三回目のインド到達。その道中でアセンション島(1501年)、セントヘレナ島(1502年)を発見した。
1502年–1503年: ヴァスコ・ダ・ガマがインドに自身2回目の到達。
1503年–1504年:
アフォンソ・デ・アルブケルケ
が、ポルトガルとして5度目のインド到達。インドにおける最初の拠点
コーチ
を獲得する。
1505年:
フランシスコ・デ・アルメイダ
が、初代
インド副王
に任じられる。彼は1505年3月25日に22隻の艦隊(
カラック
船14隻、
キャラベル船
6隻、船員1000人、兵士1500人)を率いてリスボンを出発し、9月13日に
アンジェディヴァ島
に到達した。彼の息子
ロウレンソ・デ・アルメイダ
は、インド南岸を探検してセイロン島に到達した。
1507年–1513年: 1507年にアフォンソ・デ・アルブケルケがペルシア海峡のホルムズを
占領
する。その後1508年に第二代インド副王に任じられ、1510年にゴアを
占領
した。これ以降、ゴアはインドにおけるポルトガルの一大拠点として栄えた。
1509年:
ディオゴ・ロペス・デ・セケイラ
が海路で
マラッカ
を発見。
1511年: アフォンソ・デ・アルブケルケがマラッカを
占領
する。これ以降、マラッカは
東南アジア
におけるポルトガルの最重要戦略拠点となる。マラッカ制圧を確実にした後で東方の香料諸島(
モルッカ諸島
)の情報を得たアルケブルケは、11月に
アントーニオ・デ・アブレウ
率いる3隻の遠征隊を派遣して探検させた。同年、ポルトガルが
アユタヤ王国
に使節を派遣する。彼はおそらく、
タイ
に足を踏み入れた最初のヨーロッパ人であった。この5年後、アユタヤはポルトガルに国内での貿易を認めた。
1512年初頭: アントニオ・デ・アブレウらが、
マレー人
を
水先案内人
として、
ジャワ島
、
小スンダ諸島
、
アンボン島
を経由して
バンダ諸島
に到達
[
3
]
。遠征隊は1か月ここにとどまり、
ナツメグ
や
メース
、また
中継貿易
によってバンダにもたらされていた
クローブ
などを購入した
[
4
]
。アントニオ・デ・アブレウはアンボンを経由してマラッカに帰還したが、副官の
フランシスコ・セラーン
はさらに
モルッカ諸島
を奥深く進もうとして遭難し、
テルナテ王国
に流れ着いた後、要塞を築いたり傭兵として戦ったりしながらここで生涯を終えた
[
5
]
。
1513年: アフォンソ・デ・アルブケルケが
アデン
を包囲したが攻略に失敗し、その後紅海を探検する。
1513年: ポルトガル人の
ジョルジ・アルヴァレス
が、ヨーロッパ人として初めてアフリカ周り海路から中国(
明
)に到達する。上陸地は
珠江デルタ
内の島
タマン
と伝えられている。
1516年-1517年: ポルトガル人の
ラファエル・ペレストレーリョ
が、明の
広州
に到達。
1517年: ポルトガル人の
フェルナン・ピレス・デ・アンドラーデ
がタマン、次いで広州に到達。その後、ポルトガル王の使節として1520年に
南京
や
北京
まで至った。
1519年–1522年: ポルトガル人の
フェルディナンド・マゼラン
率いるスペイン艦隊による史上初の
世界一周
航海。また同時に、初めて西回りで太平洋を渡りアジアに至ったともいえる。1519年8月10日に5隻270人の艦隊が
セビリア
を出発し、1520年に南アフリカ南部のマゼラン海峡を発見。1521年に
マリアナ諸島
、そしてフィリピンの
ホモンホン島
に到達。マゼランはその後の
マクタンの戦い
で戦死するが、生き残った船員は
パラワン
、
ブルネイ
と航海を続け、ポルトガル勢力を避けつつモルッカ諸島の
ティドレ
に到達する。最後は
フアン・セバスティアン・エルカーノ
率いる1隻18人のみが1522年にスペインに生還、世界一周を達成した。
1524年: ヴァスコ・ダ・ガマがインドに自身2回目の到達。
1542年: ポルトガル人の
アントニオ・ダ・モッタ
らが中国の
ジャンク船
に乗って
寧波
へ向かう途中で嵐に遭い、
種子島
に漂着。日本に到達した最初のヨーロッパ人となる。(
鉄砲伝来
)
1549年: スペインの
イエズス会士
フランシスコ・ザビエル
、
コスメ・デ・トーレス
、
フアン・フェルナンデス
らが、日本人の
ヤジロウ
(アンジロウ)、アントニオ、ジョアン、中国人のマヌエル、インド人のアマダーらとともに日本に到来。
1556年: ポルトガル人
ドミニコ会
士
ガスパル・ダ・クルス
が、海路から至ったヨーロッパ人として初めて中国でキリスト教の布教を行う。彼は1556年に広州に至って1か月ほど宣教を行い、ヨーロッパで初めて明朝に関する書物『中国誌』を出版した。その中には、地理、行政区画、帝室、役人の階級、官僚制、造船技術、遠竹、農業、工芸、商業、衣服、宗教・社会的な慣習、音楽や楽器、文字、教育、裁判制度といったあらゆる情報が記録されている。
1579年–1619年: イエズス会士の
トーマス・スティーブンス
が、
イングランド人
としておそらく初めてインドに到達。陸路でここに至った彼は、そのまま1619年にインドで没した。
左側(1-3枚目)
右側(4-6枚目)
坤輿万国全図
(1602年)
1582年: イタリア人イエズス会士
マテオ・リッチ
が
ポルトガル領マカオ
から北京まで至り、彼の
天文学
などの知識を見込んだ明の万暦帝の命を受けてヨーロッパ人として初めて
紫禁城
に入る。1602年、通訳の
李之藻
とともに世界地図『坤輿万国全図』を製作し、中国人や日本人の世界観と地理学に大きな影響を与える。
1595年:
オランダ人
の
ヤン・ホイフェン・ヴァン・リンスホーテン
が、ゴアでポルトガルの秘密文書から写し取った東洋の地図を『東洋におけるポルトガル船による旅行記』(
Reys-gheschrift vande navigatien der Portugaloysers in Orienten
)にまとめ出版する。1598年には
英語
や
ドイツ語
にも翻訳され、それまで一世紀近くポルトガルが海図を秘匿し独占してきた東洋への航路が他のヨーロッパ諸国にも開かれることになった。
1599年–1614年:
ジョン・ミルデンホール
とリチャード・ニューマンが、1614年に陸路でインドのアーグラに到達。
1600年–1610年: イングランド人
ウィリアム・アダムス
とオランダ人
ヤン・ヨーステン
を乗せた船が日本に漂着。ウィリアム・アダムスは以後10年にわたり
徳川家康
の顧問を務める。
1602年–1607年: ポルトガル人のイエズス会士
ベント・デ・ゴイス
が、ヨーロッパ人として初めてインドから陸路で中国に到達する。
1612年–1617年: イギリス人
トーマス・コリエット
が、陸路でインドに到達する。
1615年–1618年: イギリスの外交官
トーマス・ロー
が、ムガル帝国の
ジャハーンギール
帝への使節としてアーグラに到達する。
1624年: ポルトガルのイエズス会士
アンドニオ・デ・アンドラーデ
が、ヨーロッパ人として初めて
チベット
に到達する。
1626年–1627年: ポルトガルのイエズス会士
エステヴァン・カセラ
と
ジョアン・カブラル
が、ヨーロッパ人として初めて
ブータン
に到達する。
1631年–1668年: フランスの商人
ジャン=バティスト・タヴェルニエ
が、アジア(主にペルシア、インド、ジャワ)へ6度渡航する。
1656年–1669年: フランスの旅行家
フランソワ・ベルニエ
が、エジプトやサウジアラビアを経由してムガル帝国に至り、
アウラングゼーブ
帝の宮廷に8年間滞在する。
1664年–1680年: フランスの商人
ジャン・シャルダン
が、二度にわたりペルシアのサファヴィー朝へ旅する。2回目はインドまで歩を進めている。
1675年–1678年:
モルダヴィア
出身の
ニコライ・スパファリー
が、
康熙帝
治下の清に赴く。
関連する出来事
タブラ・ロジェリアナ
(1154年)
1154年: セウタ出身のアラブ人
ムハンマド・アル=イドリースィー
が、シチリア王
ルッジェーロ2世
のために、アラブの交易ルートの知識をもとに世界地図
タブラ・ロジェリアナ
を作成した。
1247年:
キリキア・アルメニア王国
の
ヘトゥム1世
の弟スンバトが、同盟国である十字軍諸国家の使節とともにモンゴル帝国の首都カラコルムに至る。
1254年: キリキア・アルメニア王ヘトゥム1世がカラコルムに至り、
モンケ
に謁見する。
1275年–1288年: ウイグルのネストリウス派聖職者
ラッバーン・バール・サウマ
とラッバーン・マルコス(後の
ネストリウス派教会
総主教
マール・ヤバラーハー3世
)が、イルハン朝の使節として教皇庁を含むヨーロッパ各国の宮廷を訪れ、同盟関係構築を模索する。
1325年–1355年: モロッコ出身の旅行者
イブン・バットゥータ
が、旧世界の大部分を旅する。彼が著した
三大陸周遊記
は、19世紀に至るまでヨーロッパ人に影響を及ぼし続けた。
脚注
^
ANCIENT SILK ROAD TRAVELLERS
^
Vera Lucia Bottrel Tostes,
Bravos homens de outrora
, Camoes - Revista de Latras e Culturas Lusofonas, no. 8, January - March 2000
^
Hannard (1991), page 7;
Milton, Giles
(1999).
Nathaniel's Nutmeg
. London: Sceptre. pp. 5 and 7.
ISBN
978-0-340-69676-7
^
Hannard (1991), page 7
^
Ricklefs, M. C. (1993).
A History of Modern Indonesia Since c.1300, 2nd Edition
. London: MacMillan. pp. 25.
ISBN
0-333-57689-6
関連項目
シルクロード
中世中国のヨーロッパ人
探検家の一覧
ロシアの探検家の一覧
ヨーロッパ人のアラビア進出
ヨーロッパ人の探検年表