ヨース・ファン・クレーフェ
ヨース・ファン・クレーフェ(オランダ語: Joos van Cleve、1485年頃 - 1540年頃)は、フランドルの画家。生涯については謎が多く、確定していることは少ない。 略歴本名はJoos van der Bekeとされ、通称のヨース・ファン・クレーフェは出身地の地名を示すとして、現在のドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州のクレーヴェ (Kleve)を出生地とされることもあるが、証拠はなく、アントウェルペン生まれとされることもある[3]。画家の父のもとで修業した[3]。若年期にイタリア旅行を経験したとも考えられている[2]。1511年、アントウェルペン画家組合に加入[3]。1530年頃フランス王フランソワ1世の宮廷に招かれ、王室の肖像画を描いた[3]。1540年にアントウェルペンで亡くなった。 19世紀まで忘却されていたが、聖母マリアの死を題材にした作品にちなみ、「聖母の死の画家」(オランダ語: Meester van de Dood van Maria)という名前でよばれていた。19世紀末以後、再発見された画家である[4]。 息子のコルネリス・ファン・クレーフェ(Cornelis van Cleve:1520-1567/1614)も父親のスタイルを継承した画家になった。 作品
脚注
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