ヨハン・アドルフ2世 (ザクセン=ヴァイセンフェルス公)
ザクセン=ヴァイセンフェルス公ヨハン・アドルフ2世(ドイツ語:Johann Adolf II. von Sachsen-Weißenfels、1685年9月4日 ヴァイセンフェルス - 1746年5月16日 ライプツィヒ)は、第5代かつ最後のザクセン=ヴァイセンフェルス(Sachsen-Weißenfels)公。 家系ザクセン=ヴァイセンフェルス公ヨハン・アドルフ1世(Johann Adolf I. von Sachsen-Weißenfels)と、その妻であるザクセン・アルテンブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(Friedrich Wilhelm II. von Sachsen-Altenburg)の娘ヨハンナ・マグダレーナ(Johanna Magdalena von Sachsen-Altenburg)の7番目の末子。母は生まれてからわずか5ヶ月で亡くなった。 ポーランド継承戦争ポーランド継承戦争では、ザクセン軍を率いてポーランドに侵入した(1733年10月)。その後3年間、ザクセン軍は主にポーランド南部に留まったが、王位継承のライバル候補であるスタニスワフ・レシチンスキが敗れた後、ザクセン選帝侯アウグスト2世がポーランド王に即位するまで、ザクセン軍はポーランド南部に留まった。同じ年、兄が子を持たずに亡くなったため、ザクセン・ヴァイセンフェルス公を相続した。 第二次シレジア戦争の際、プロイセン軍がザクセンの国境を越えたため、ザクセンとオーストリアは共同でプロイセンに対抗することで合意した。ザクセン軍はシレジア北部でプロイセンを遮断し、オーストリア軍は南から進撃する計画であった。しかし、1745年6月、ホーエンフリードベルグの戦いで敗れてしまった。ヨハン・アドルフは、1745年9月に新たな攻勢作戦を計画したが、2週間後には考えを改めた。そのため、選帝侯の非嫡出の異母兄であるフレデリック・アウグスト・ルトウスキ伯爵が総司令官に就任した。 ケッセルスドルフの戦いの後、選帝侯は異母兄のルトウスキを総司令官から外し、ヨハン・アドルフを復職させ、1745年12月1日から総司令官としての任務を開始した。また、選帝侯とブリュール公使ハインリヒが不在の間、彼はザクセン政府の長に任命された。 ザクセン軍とともにボヘミアに退却した5ヵ月後に心臓発作で死亡。享年61。 関連項目
|