モーリッツ (ザクセン=ツァイツ公)

モーリッツ
Moritz
ザクセン=ツァイツ公
在位 1656年 - 1681年

出生 (1619-03-28) 1619年3月28日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領ドレスデン
死去 (1681-12-04) 1681年12月4日(62歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=ツァイツ公領、ツァイツ、モーリッツブルク城
配偶者 ゾフィー・ヘートヴィヒ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク
  ドロテア・マリア・フォン・ザクセン=ヴァイマル
  ゾフィー・エリーザベト・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ヴィーゼンブルク
子女 本文参照
家名 ヴェッティン家アルブレヒト系
父親 ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世
母親 マグダレーナ・ジビュレ・フォン・プロイセン
テンプレートを表示

モーリッツドイツ語:Moritz, 1619年3月28日 - 1681年12月4日)は、ザクセン=ツァイツ公(在位:1656年 - 1681年)。

生涯

モーリッツはザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世マグダレーナ・ジビュレ・フォン・プロイセンの息子である。兄にザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク2世、ザクセン=ヴァイセンフェルス公アウグストおよびザクセン=メルゼブルク公クリスティアン1世がいる。

兄らとともに、モーリッツはドレスデンの宮廷で育てられた。式部長官(Hofmarschall)クルト・フォン・アインジーデルが主に教育係となった。1642年8月から1645年9月まで、モーリッツは兄クリスティアンとともに北ドイツおよびオランダへとグランドツアーにでかけた。

1645年、アンハルト=ケーテン侯ルートヴィヒ1世は、モーリッツの実りを結ぶ会への入会を認めた[1]。モーリッツは「謙虚な人」という会員名とモットーを与えられた。

1647年、モーリッツはドイツ騎士団のチューリンゲン管区をゆだねられた。

1652年7月20日にドレスデンで作成されたザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の遺言書に、3人の年少の息子らはそれぞれ分邦の公国を受け取ることが記された。選帝侯が1656年10月8日に亡くなった後、1657年4月22日にドレスデンで兄弟間の分割に関する合意が結ばれ、1663年に結ばれた合意により最終的に3つの領土と付随する権利が決められた。

かつてのナウムブルク・ツァイツ教区は、関連する修道院地域や、タウテンブルク、ヘンネベルク伯領内のアルベルティン家の領地、ノイシュタットおよびフォークトラントなどの他の領土とともに、新たに創設されたザクセン=ツァイツ公国を形成することとなった。モーリッツは1657年に、大部分が破壊された司教の城の跡地にツァイツのエルスター川沿いにモーリッツブルク城を建設させた。また、三十年戦争で荒廃した領地の再建に尽力した。モーリッツは農業、貿易、商業、ギルドを促進し、戦争で受けた被害の回復に努め、妻と共にツァイツに学校を建設した[2]。政治学者で神学者のファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフとともに、モーリッツは重要な大臣と教会の長を味方につけていた。劇作家のヨハン・セバスティアン・ミッターナハトは、ツァイツで宮廷付牧師として仕えた。

モーリッツは1681年12月4日にモーリッツブルク城において62歳で死去した。遺言により孤児院の建設に10,000ギルダーが寄付された。長男モーリッツ・ヴィルヘルムが後見人のもと公位を継承した。

結婚と子女

1650年11月19日にドレスデンにおいて、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公フィリップの娘ゾフィー・ヘートヴィヒと結婚した。ゾフィー・ヘートヴィヒの妹クリスティアーナも同じ時にモーリッツの兄クリスティアンと結婚した。2人の間に以下の子女が生まれた。

  • ヨハン・フィリップ(1651年11月12日 - 1652年3月24日)
  • モーリッツ(1652年9月26日 - 1653年5月10日)

1652年にゾフィー・ヘートヴィヒが死去し、その4年後の1656年7月3日ヴァイマルにおいてザクセン=ヴァイマルヴィルヘルムの娘ドロテア・マリアと結婚した。2人の間に以下の子女が生まれた。

  • エレオノーレ・マグダレーネ(1658年10月30日 - 1661年2月26日)
  • エアドムート・ドロテア(1661年 - 1720年) - ザクセン=メルゼブルク公クリスティアン2世と結婚
  • モーリッツ・ヴィルヘルム(1664年 - 1718年) - ザクセン=ツァイツ公
  • ヨハン・ゲオルク(1665年4月27日 - 1666年9月5日)
  • クリスティアン・アウグスト(1666年 - 1725年) - エステルゴム大司教、枢機卿
  • フリードリヒ・ハインリヒ(1668年 - 1713年) - ザクセン=ツァイツ公
  • マリア・ゾフィア(1670年11月3日 - 1671年5月31日)
  • マグダレーナ・ジビッラ(1672年4月7日 - 1672年8月20日)

1675年にドロテア・マリアが死去した後、1676年7月14日にヴィーゼンブルクにおいてシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ヴィーゼンブルク公フィリップ・ルートヴィヒの娘ゾフィー・エリーザベトと結婚した。この結婚で子供は生まれなかった。

脚注

  1. ^ Martin Bircher (2003). “Johann Beer am Hof des Wohlgeratenen”. In Ferdinand van Ingen, Hans-Gert Roloff. Johann Beer – Schriftsteller, Komponist und Hofbeamter 1655–1700 : Beiträge zum Internationalen Beer-Symposion in Weißenfels, Oktober 2000. Jahrbuch für Internationale Germanistik : Reihe A, Kongreßberichte. 70. Verlag Peter Lang. p. 82. ISBN 3-03910-229-X 
  2. ^ Alexander Blöthner (2017). Geschichte des Saale-Orla-Raumes: Orlasenke und Oberland. Band 2: Das 17. und 18. Jahrhundert bis zum Ende der Napoleonischen Zeit. Norderstedt: Books on Demand. p. 252. ISBN 978-3-7431-2886-6 

参考文献

  • Rudolf Drößler u. a. (Hrsg.) Landesheimatbund Sachsen-Anhalt e. V.: Die sächsischen Wurzeln des Landes Sachsen-Anhalt und die Rolle der Sekondogenitur Sachsen-Zeitz, Protokoll des Wissenschaftlichen Kolloquiums am 26. Oktober 1996 in Zeitz, Beiträge zur Regional- und Landeskultur Sachsen-Anhalts, Heft 5, druck-zuck GmbH, Halle 1997, ISBN 3-928466-14-3.
  • Roland Rittig, Jochen Vötsch (Hrsg.): Museum Schloss Moritzburg Zeitz: Barocke Residenz Kultur in Zeitz, Mitteldeutscher Verlag, Halle 2008, ISBN 978-3-89812-592-5, Informationen über die Entstehung von Sachsen-Zeitz, Moritzburg, Prinzenerziehung, Hofmusik, Heiratspolitik, Barockarchitektur
  • Vinzenz Czech (Hrsg.): Fürsten ohne Land. Höfische Pracht in den sächsischen Sekundogenituren Weißenfels, Merseburg und Zeitz. Band 5, Schriften zur Residenzkultur des Rudolstädter Arbeitskreises, unterstützt durch die Fritz Thyssen Stiftung für Wissenschaftsförderung, Lukas Verlag für Kunst- und Geistesgeschichte, Berlin 2009, ISBN 978-3-86732-059-7, S. 50–52 Herzog Moritz von Sachsen-Zeitz, S. 64–69 Waisenhäuser und Hospitäler, u. a. in Zeitz, S. 102–105 Brüderliche Eintracht, S. 215–236 Die „Durchlauchtigste Zusammenkunft“ 1678, S. 273–277 Gründe für die Sekundogenitur: Versorgung der jüngeren Söhne und engere Anbindung der Hochstifte Naumburg und Merseburg bzw. Durchsetzung von territorialen Ansprüche gegenüber den Ernestinern
先代
ザクセン=ツァイツ公
1656年 - 1681年
次代
モーリッツ・ヴィルヘルム