マリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス
マリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス(Marie von Thurn und Taxis, 1855年12月28日 - 1934年2月16日)は、ドイツの貴族女性。作家ライナー・マリア・リルケの庇護者として知られる。 生涯シュタンデスヘルのホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト侯カール・アルブレヒト3世の三男エゴン・カール侯子(1819年 - 1865年)と、その妻の伯爵令嬢テレーゼ・フォン・トゥルン=ホーファー・ウント・ヴァルサッシーナ(1815年 - 1893年)の間の第4子、次女として生まれた。 結婚前の全名はマリー・エリーザベト・カロリーネ・アンナ・レオポルディーネ・ポリクセネ・カタリーネ・テレーゼ・ライムンデ・ツー・ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト(Marie Elisabeth Karoline Anna Leopoldine Polyxene Katharine Therese Raimunde zu Hohenlohe-Waldenburg-Schillingsfürst)である。高度に文化的な教育を授けられ、6か国語を自由に操った。 1875年4月19日にヴェネツィアにおいて、トゥルン・ウント・タクシス侯子アレクサンダー(1851年 - 1939年)と結婚し、間に3人の息子をもうけた[1]。夫はトゥルン・ウント・タクシス侯家のボヘミア分家[2]の出で、ラウチン(ロウチェニ)とドブロヴィッツの領主だった。 マリーは美術品の収集に熱心だったため、次第に文人・芸術家の間で有名人となり、パリで閉鎖的なサロンを営んだ。特にカイザー・フリードリヒ博物館初代館長ヴィルヘルム・フォン・ボーデ、女優エレオノーラ・ドゥーゼ、舞踊家ヴァーツラフ・ニジンスキー、小説家アンナ・ド・ノアイユ伯爵夫人、哲学者ルドルフ・カスナーといった人々と親しかった[1]。 1909年、ノアイユ伯爵夫人やカスナーの紹介で小説家ライナー・マリア・リルケと知り合い、1910年にはリルケをボヘミアの居城ラウチン城に招いて滞在させた。マリーは創作活動に悩むリルケをヴァイマルに伴い、見聞旅行をさせるなどして励ました。リルケはその後、マリーが母から相続したアドリア海沿岸の城ドゥイーノ城(トリエステ北郊ドゥイーノ=アウリジーナ)に滞在し、この城で新たな創作の霊感を得た。そして完成した長編連作詩『ドゥイノの悲歌』は、マリーに献呈された[3]。リルケの死後、マリーはこの小説家との交友の思い出を回想録として公表した。 マリーの三男アレクサンダーは1923年イタリアに帰化し、イタリア王室からカステル・ドゥイーノ公爵位を授けられた。 著作
引用・脚注
参考文献
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