マリア・クリスティーナ・フォン・ザクセン (1735-1782)
マリア・クリスティーナ・フォン・ザクセン(Maria Christina von Sachsen, 1735年2月12日 - 1782年11月19日)は、ドイツのザクセン選帝侯家(アルベルティン家)の公女で、帝国修道院の1つルミルモン女子修道院の修道院長。全名はマリア・クリスティーナ・アンナ・テレジア・ザロメーア・オイラリア・フランツィスカ・クサヴェリア(Maria Christina Anna Theresia Salomea Eulalia Franziska Xaveria von Sachsen und Polen[1])。 生涯ポーランド王およびザクセン選帝侯アウグスト3世とその妻で神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の娘であるマリア・ヨーゼファの間の第10子、六女として、ワルシャワ郊外のヴィラヌフ宮殿で生まれた[2][1]。仲の良い両親や兄弟姉妹に囲まれて育ち、高度な教育を受けた。哲学、地理、宗教教育、描画、音楽およびダンスなどを教わり、母語のドイツ語に加えてラテン語、フランス語、ポーランド語を習得した。 1747年、姉のマリア・ヨーゼファがフランス王ルイ15世の長男ルイ・フェルディナン王太子と結婚した[2]。1764年、フランス王太子の義妹という縁から、マリア・クリスティーナはロレーヌ地方のルミルモン女子修道院の補佐修道院長に選任され、1773年に修道院長に昇格した[2]。ルイ15世やロレーヌ公スタニスワフ・レシュチンスキから多額の年金を与えられていた彼女は、頻繁にパリを訪れて観劇や遊興にふけった。フランス人の間では教養高く、話術の巧みな王女として称賛された。 1775年にアルザス地方のブリュマト城を購入し[3]、この城で贅沢な生活を続けた。1782年[1]に死去した後、甥の新王ルイ16世は彼女が残した13万6876リーヴルもの借財を支払わねばならなかった[3]。遺骸はルミルモンに、内臓はブリュマトに、心臓はドレスデンに埋葬された。死後、ブリュマト城は放棄され、フランス革命の時期には略奪の対象となった[4]。 引用
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