マジャル人のヨーロッパ侵攻 (ハンガリー語 : kalandozások , ドイツ語 : Ungarneinfälle ) では、9世紀から10世紀にかけてマジャル人 (ハンガリー人)が大陸ヨーロッパ 各地を蹂躙した諸遠征について述べる。この時代、ヨーロッパの大部分を支配していたカロリング帝国 およびその後継諸国は、東のマジャル人、北のヴァイキング 、南のアラブ人 という三方の強力な敵の侵攻に苦しめられた[ 1] [ 2] 。
9世紀の終わりにパンノニア平原を征服 したマジャル人は、西方の旧フランク王国の領域や南方の東ローマ帝国に何度も侵攻した。西方への遠征では数々の勝利をおさめ、イベリア半島や大西洋岸、イタリア半島南端まで至る広範な地域を蹂躙したが、955年のレヒフェルトの戦い で東フランク王国に決定的敗北を喫した。これは東フランク王国が神聖ローマ帝国 となり、西欧の秩序が大きく変化するきっかけにもなった。その後も東ローマ帝国への侵入は続いた。次第にカルパチア盆地 に落ち着いてカトリック を受容したマジャル人は、1000年にハンガリー王国 を建国した。
歴史
「ハンガリー」征服以前(9世紀)
キエフ のマジャル人 (パール・ヴァーゴー画, 1896年-1899年)
マジャル人に関する文献が登場するのは9世紀からである。811年、マジャル人は第一次ブルガリア帝国 のクルム と同盟して東ローマ帝国のニケフォロス1世 と戦っており、プリスカの戦い にも参加していた可能性がある[ 3] 。ゲオルギオス・ハマルトロス によれば、837年にもブルガリア帝国がマジャル人との同盟を試みている[ 3] [ 4] 。コンスタンティノス7世 の『帝国統治論 』によれば、テオフォロス (在位:829年 - 842年)の時代、ハザール のカガン とベク が、マジャル人に対抗するためサルケル 要塞を建ててもらえるよう東ローマ帝国に求めている[ 4] 。この記録から、当時のマジャル人はハザールの唯一にして最大の敵としてマジャル人が勃興したということがうかがえる[ 4] 。10世紀ペルシアの地理学者アフマド・イブン・ルスタ は、ハザールがマジャール人などの攻撃に備えて防備を固めていたことに言及している[ 4] 。
860/1年、ケルソネソス・タウリカ のハザールのカガンの元へ向かっていた聖キュリロス の使節団がマジャル人に襲われたが、暴力的な事態には至らず、この遭遇は平和的に終わったという[ 3] 。ムスリムの地理学者たちの記録によれば、マジャル人は恒常的に近隣の東スラヴ人 を襲撃して奴隷とし、ケルチ において東ローマ帝国に売りさばいていた[ 5] [ 6] 。862年には、東フランク王国でマジャル人の侵攻が報告されている[ 7] 。
881年、東フランク王国はマジャル人とカバール人 の侵攻を受け、2度にわたり戦闘した。1度目はWenia (おそらくウィーン )でUngari と[ 7] 、2度目はCulmite (おそらく現在のオーストリアのクルンベルク)でCowari と戦ったと記録されている[ 8] 。892年、フルダ年代記によれば、東フランク王アルヌルフ がモラヴィア王国に侵攻した際、マジャル人も彼に味方して出兵した[ 4] [ 7] 。893年以降、マジャル人は東ローマ帝国の提供した船でドナウ川を渡り、3度にわたって(ドナウ川、シリストラ、プレスラフ)ブルガリア帝国を破った[ 6] 。894年、マジャル人は今度はモラヴィア王スヴァトプルク1世と組んでパンノニアに侵攻した[ 4] [ 7] 。
「ハンガリー」征服後 (10世紀)
マジャル人戦士を描いたフレスコ画 (イタリア)
900年ごろのヨーロッパ
アールパード像(ブダペスト)
896年ごろ[ 9] 、おそらくアールパード に率いられ、マジャル人がカルパチア山脈を越えてカルパチア盆地 に侵入 した。
899年、マジャル人はブレンタ川の戦い でイタリア王ベレンガーリオ1世 を破り、北イタリアに侵攻した。トレヴィーゾ 、ヴィチェンツァ 、ヴェローナ、ブレシア 、ベルガモ 、ミラノ といった主だった都市は彼らに蹂躙された[ 6] 。その後マジャル人は東フランク王国に従属する低パンノニア 公ブラスラフ を破り、901年には再びイタリアに侵攻した[ 10] 。902年、マジャル人は北モラヴィアに侵攻し、モラヴィア王国を崩壊させた[ 6] 。900年以降、彼らは毎年のように西欧カトリック圏や東ローマ帝国に侵攻した。905年、ベレンガーリオ1世はマジャル人と友好条約(amicitia )を結び、以後15年間マジャル人がイタリアに侵入することはなかった[ 11] 。
907年から910年にかけて、マジャル人は少なくとも3度にわたりカロリング系帝国軍を撃破した[ 12] 。907年、東フランク王ルートヴィヒ4世 とバイエルン辺境伯ルイトポルト らがパンノニア 奪還を目指して侵攻してきたが、ブレザラウシュプルツの戦い でマジャル人に惨敗した。その結果、マジャル人は逆に大モラヴィアやドイツ、フランスにまで抵抗を受けず襲撃の手を伸ばすことが出来た。908年8月3日、マジャル人はアイゼナッハの戦い でテューリンゲン公国 軍を撃破した[ 8] 。エギノ、ブルカルト両テューリンゲン公やヴュルツブルク 司教ルドルフ1世らがこの戦いで戦死した[ 13] 。910年、マジャル人は第一次レヒフェルトの戦い で再びルートヴィヒ4世を破った。
915年には、小規模なマジャル人の一団がドイツを突き抜けてブレーメン にまで到達している[ 14] 。919年、ドイツ王コンラート1世 が死去した後、マジャル人はザクセン、ロタリンギア、西フランク を蹂躙した。921年にはベレンガーリオ1世 に雇われてその敵と戦い、922年にヴェローナ を占領し、略奪した[ 15] [ 11] 。パヴィーア司教ヨハネスはベレンガーリオ1世に降伏したが、2年後の924年にはマジャル人の襲撃を被っている[ 16] 。917年から925年にかけて、マジャル人はバーゼル 、アルザス 、ブルゴーニュ 、プロヴァンス 、ピレネー を襲撃している[ 14] 。
925年ごろ、ドゥクリャ司祭の年代記 (12世紀後半)によれば、クロアチア王 トミスラヴ がマジャル人を戦闘で破ったという[ 17] 。ただし、この記録は他の文献で裏付けられる証拠がないため、信憑性に疑問が持たれている[ 17] 。
926年、マジャル人はシュヴァーベン とアルザスを掠奪し、現在のルクセンブルク にあたる地域や大西洋 岸にまで達した[ 11] 。927年、教皇ヨハネス10世 の兄弟のペトルスという人物が、マジャル人にイタリアを統治するよう求めた[ 11] 。マジャル人はローマ まで進軍し、トスカーナ とタレントで莫大な貢納を獲得した[ 11] [ 14] 。933年、大規模なマジャル人の軍団が、停戦が失効したザクセンへ侵攻したが、リアデの戦い で東フランク王兼ザクセン公のハインリヒ1世 に敗れた[ 11] 。それでもマジャル人の勢いは止まらず、935年には上ブルグントを、936年には再びザクセンを襲った[ 11] 。937年、彼らはフランスに侵攻し、ランス 、ロタリンギア 、シュヴァーベン、フランケン 、ブルゴーニュ公国 [ 18] を襲い、さらにはイタリアに侵攻して南端のオトラント にまで達した[ 11] 。さらにブルガリアや東ローマ帝国に侵攻し、コンスタンティノープルの城壁に達した。東ローマ帝国は15年にわたりマジャル人に「税」を収めることになった[ 19] 。938年、マジャル人は立て続けにザクセンに侵攻した[ 11] 。940年にはローマ周辺を荒らした[ 11] 。942年、アンダルス の歴史家イブン・ハイヤーンによれば、マジャル人はイベリア半島 に侵攻してカタルーニャ を荒らした(マジャル人のイベリア侵攻 )[ 20] [ 21] 。947年、ブルチュー・ハルカ率いるマジャル人がイタリアに侵攻し[ 22] 、プッリャまで至った。イタリア王ベレンガーリオ2世 は、莫大な貢納金を積んで和を結ばざるを得なかった。
955年、マジャル人はアウクスブルク の南で東フランク王オットー1世 と衝突した。この第二次レヒフェルトの戦い で、マジャル人は5000人の戦士を失う決定的敗北を喫し、彼らの西欧への侵攻は終わりを告げた。ただ、東ローマ帝国への侵攻は970年まで続いた。
全体として、マジャル人はヨーロッパ各地へ45回(ナジ・カールマーンの計算)もしくは47回(サバドシュ・ジェルジの計算)もの遠征を行った[ 23] 。そのうち実に8割を超える37回が成功といえる結果を残しており、失敗したのはわずか8回(901年、913年、933年、943年、948年、951年、955年、970年)だった[ 24] 。
マジャル人の遠征年表
「ハンガリー」征服以前
「ハンガリー」征服以降
899年 – イタリア王国 に侵攻し、9月23日にブレンタ川の戦い でベレンガーリオ1世 を破る。モデナ を焼いてヴェネツィア を攻撃した末、ベレンガーリオ1世からの貢納を取り付ける[ 33] 。
900年 – 東フランク王国に同盟を申し込んだが拒否されたため、パンノニア を征服。現在のハンガリー にあたる地域の征服完了[ 34] 。
901年
902年 – モラヴィア王国東部を征服、カルパチア盆地征服の完了。より西方や東方のスラヴ人がマジャル人に貢納するようになる[ 36] 。
903年 – バイエルン に侵攻するも、フィシャ川 付近で敗北[ 36] 。
904年
905年
初夏 - イタリア王ベレンガーリオ1世と同盟し、イタリア王位を要求していたプロヴァンス王 ルイ3世 を破る。ルイ3世はベレンガーリオ1世によって目を潰される[ 37] 。
906年 – ザクセン人に脅かされていたスラヴ人ダラマンツィ族の求めに応じ、ザクセン を立て続けに攻撃し、これを荒廃させる[ 37] 。
907年
908年 – テューリンゲン とザクセンを攻撃。8月3日にアイゼナッハの戦いでテューリンゲン公 ブルハルト を破る。ブルハルト、エギノ 、ヴュルツブルク司教ルドルフ1世らが戦死[ 40] 。
909年
910年
911年 – バイエルンを通過してシュヴァーベンとフランケンを襲撃し、マインフェルトから年までを掠奪する。その後ライン川を渡り、初めてブルゴーニュ に到達[ 42] 。
912年 – 新たに東フランク王に即位したコンラート1世 に貢納を強いるため、フランケンとテューリンゲンを攻撃[ 42] 。
913年 – バイエルン、シュヴァーベン、北ブルゴーニュを掠奪するが、イン川の戦い でバイエルン公アルヌルフ、シュヴァーベン公エルハンガー、ウダルリッヒ公、ベルフトルト公の連合軍に敗れる[ 43] 。
914年 – コンラート1世に公位を追われたバイエルン公アルヌルフとその家族を受け入れ、彼の復位を支援することを約束[ 44] 。
915年 – シュヴァーベンとフランケンを荒廃させる。フルダ修道院の襲撃には失敗したが、コルヴァイ 修道院を焼き、ヘルツフェルトの聖イダ 修道院を掠奪する。その後ザクセンに入ってファルンを掠奪し、ブレーメン を焼き、エレスブルク でザクセン軍を破り、デンマーク国境まで至る[ 44] 。
916 – アルヌルフの公位奪回を支援するためバイエルンに侵攻するが失敗[ 44] 。
917
919年- 920年
921年 - 922年
ドゥルシャツとボガートに率いられ、北イタリアに侵攻。ブレシア からヴェローナ に至る地域とルドルフ2世を支援する勢力を壊滅させ、宮中伯オデルリクを殺害し、ベルガモ伯ギスレベルトを捕虜とする。南イタリアで越冬し、922年1月にローマからナポリの間の地域を掠奪する。2月4日には東ローマ帝国領のプッリャ を攻撃する[ 48] 。
924年
イタリア及び南フランスでの活動
春 – ルドルフ2世がパヴィーア でイタリア王に選出され、ベレンガーリオ1世がマジャル人に助けを求めたのを受けて、サラールドに率いられてパヴィーアとティチーノ川のガレー船団を焼き払う。
4月7日 – ベレンガーリオ1世が暗殺されたのを受け、ブルグント王国 へ移動。アルプス山脈 を越えさせまいとするルドルフ2世とプロヴァンス公ウーゴ の攻撃を振り払い、ニーム 近郊を攻撃。しかし疫病が流行りだしたため、ハンガリーに引き返す[ 49] 。
ザクセンでの活動
上記と別の集団がザクセンに侵攻。東フランク王ハインリヒ1世はヴェルナ 城に逃げ込むが、たまたまあるマジャル人貴族がドイツ人に殺害されたのを機にマジャル人と交渉し、貢納と引き換えに和を結ぶ[ 50] 。
926年
5月1–8日 – イタリア王となったウーゴの同盟者としてシュヴァーベンに侵攻し、アウクスブルク を包囲[ 51] 、ザンクト・ガレン修道院 を占領する。ここを拠点に小規模な部隊が周辺地域を襲撃し、付近の森に隠棲していた聖ヴィボラダ が犠牲となる。
5月8日以降 – コンスタンツ を包囲し、近郊を焼き払ったのち、西方のシャフハウゼン やバーゼルへ向かう。その中の一部隊がライン川 の河畔のセッキンゲンで地元民に撃退されるが、他の舞台はライン川を渡り、船を鹵獲してアルザスに侵攻し、アルザス公リウトフレド を破る。その後はライン川を下って北上し、ヴォンク 周辺を掠奪する。大西洋に到達した後は、ランス を経由してハンガリーに帰還する。その途中でバイエルンに立ち寄り、アルヌルフとの同盟関係を更新する。
7月29日 – オーバーキルヘンを破壊する[ 52] 。
927年 – イタリア王ウーゴの求めに応じてローマに侵攻し、教皇ヨハネス10世を打倒。その間にトスカーナ やプッリャ を掠奪し、オーリア とターラント を占領した.[ 53] 。
931年 – ピアチェンツァ を焼く[ 54] 。
933年
3月初頭 – 東フランク王ハインリヒ1世が貢納を停止しため、ザクセンに侵攻。スラヴのダマランツィ人の領域から侵入したのち二手に分かれたが、西側からザクセン侵入を試みた部隊はザクセン・テューリンゲン連合軍にゴータ 付近で敗北する。
3月15日 – 残る一隊がメルゼブルク を包囲するが、リアデの戦い で東フランク軍に敗れる[ 54]
934年
西欧方面
バルカン半島方面
ペチェネグ人 との戦争が勃発するが、ブルガリア人がマジャル人の領域を侵すためにW.l.n.d.rという大都市 (おそらくベオグラード )に集結しているという報を受けてペチェネグ人と和平、逆に連合してこの街を攻撃することにする。
4月 – マジャル・ペチェネグ連合軍がW.l.n.d.rの戦い でブルガリア・東ローマ連合軍をに大勝したのち、この街を3日にわたり掠奪する。.
5月–6月 – ペチェネグ人とともにトラキア を掠奪し大勢の捕虜を捕らえながら南下、コンスタンティノープル の城壁 外に40日にわたり居座る。最終的に東ローマ帝国は捕虜の身代金を払い、貢納することを約束して輪を結んだ[ 56]
935年 – アキテーヌ とブールジュ を襲い、ブルゴーニュと北リイタアを経由して帰還する。その間にブレシア を掠奪している[ 55] 。
オットー1世の登場
936年 - 937年
936年末 – 新たな東フランク王オットー1世 が即位したのに伴い、貢納を強いるためにシュヴァーベンとフランケンをに侵攻、フルダ修道院を焼く。その後ザクセンに侵入するが、オットー1世に撃退され、西方へ針路を変える。
937年2月21日 – ロタリンギアに入り、ヴォルムス でライン川を渡り、ナミュール に向かう
聖バソルス修道院からヴェルジーに至る地域を占領し、ここを拠点として周辺の修道院を掠奪する。
3月24日 – サンス に至り、聖ペテロ修道院を焼く。
オルレアン でエベス・ド・デオル率いるフランス軍を破る。その後ロワール川 に沿ってフランス中部を荒らし、大西洋に至ったのちはブルゴーニュへ向かい、ブールジュ近郊を掠奪する。
7月11日以降 – ディジョン からブルゴーニュに入り、ルクソール修道院を掠奪。そこからローヌ川の渓谷に沿って蹂躙しながら南下し、トゥールニュ を焼き、聖デイコルス修道院と聖マルケル修道院を占領するが、聖アッポリナリス修道院は奪えなかった。
8月 – 東進してロンバルディアに入る。ここでイタリア王ウーゴの要請を受け南イタリアに侵攻し、東ローマ帝国領を荒らす。カプア 近郊を掠奪し、ガリアーノ の牧草地に本営を置いて、ナポリ 、ベネヴェント 、サルノ 、ノーラ 、モンテ・カッシーノ に小遠征隊を派遣して掠奪する。特にモンテ・カッシーノを襲った際の戦果が大きく、捕虜の身代金として2000ヒュペルピュロン もの金貨を得た[ 57] 。
秋 – ハンガリーへ帰る途中、ある一部隊がアペニン山脈中で地元民の奇襲を受け、戦利品を奪われる[ 57] 。
938年
7月末 – テューリンゲンとザクセンを攻撃し、ハルツ山地 北方のボーデに拠点を置き、各方面に小遠征隊を派遣する。うち一部隊はヴォルフェンビュッテル で東フランク軍に敗れ、指揮官を失った。他のある部隊はスラヴ人案内者の誤りによってドレーミング の沼沢地帯に迷い込み、Belxaでドイツ人の奇襲を受け惨敗する。この部隊の指揮官は捕虜となり、身代金が支払われた。
8月31日以降 – 敗報を受けたマジャル人本軍は、ボーデ川 の駐屯地からハンガリーへ撤退する[ 58] 。
940年4月 – イタリア王ユーグを助けてローマ貴族を破るが、その後ランゴバルド人に敗れる.[ 58] 。
942年
春 – イタリアに侵攻した際、イタリア王ユーグから10ブッシェル の金を与えられ、彼の求めに応じてイベリア半島 の後ウマイヤ朝 を攻撃する。
6月中旬 – カタルーニャ を掠奪し、後ウマイヤ朝の北部領土に侵攻する。
6月23日 – レリダ を8日間包囲した後、サルダーニャ とウエスカ を攻撃する。
6月26日 – バルバストロ太守ヤフヤー・ムハンマド・イブン・アッ=タウィルを捕らえ、33日後に身代金を手に入れて解放する。
7月 – 荒野地帯で水と食料が尽きたため、イタリア人案内人を殺害して帰路に就く。5人のマジャル人戦士が後ウマイヤ朝の捕虜となり、カリフ の近衛となる[ 59] 。
943年
バルカン半島方面
バイエルン方面
バイエルンに侵攻するも、ヴェルスの戦いでバイエルン公ベルトルトとカランタニア人の連合軍に敗れる[ 60] 。
947年 – タクソニに率いられ、イタリアに侵攻して半島の東岸を南下。ラリーノ を包囲し、オトラント まで達し、3か月にわたりプッリャを荒らしまわった[ 61] 。
948年 – 2つの部隊に分かれてバイエルンとケルンテンを攻撃するが、ノルドガウのフロッツンでバイエルン公ハインリヒ1世 に敗れる[ 62] 。
949年8月9日 – ラーでバイエルン軍を破る[ 62] [ 63] 。
950年 – バイエルン公ハインリヒ1世がハンガリー西部に侵攻し、捕虜をとり掠奪する[ 62] 。
951年
春 – ロンバルディアを通過し、アキテーヌを攻撃する。
11月20日 – ハンガリーに帰還しようとしたところで、イタリア王国を征服してきたオットー1世の東フランク軍に遭遇し、敗れる[ 62] 。
954年
2月 – オットー1世の息子のシュヴァーベン大公 リウドルフ が父親に反乱を起こしたのを受け、リウドルフと同盟。ブルチュー に率いられ、オットー1世に味方するバイエルン、シュヴァーベン、フランケンの各地を襲撃する。
3月1日 – ライン川を渡り、リウドルフの弟で反乱軍側に立つロタリンギア公コンラート の首都であるヴォルムスに駐屯する。
3月19日 – 西方へ進撃し、コンラートの敵のケルン 大司教ブルーノ とラゲナリウス伯を攻撃する。その後、モーゼル川 とマース川 を渡る[ 64] [ 65] 。
エスベイとカルボナリア(ともに現ベルギー )を掠奪、さらにエノー の聖ランベルト修道院を掠奪して焼き、モールセル修道院を掠奪し、ジャンブルー 市とトゥルネー 市を攻略する。
4月2日 – ロッブ修道院を攻撃するが、修道士に撃退される。その後聖パウロ修道院に矛先を変えてこれを焼き、宝物を奪う。
4月6–10日 – カンブレー を包囲し、周辺を焼くが、攻略には失敗。攻城戦中にブルチューの親族の一人が戦死。防衛側が彼の遺体の返還を拒んだため、マジャル軍は報復として捕虜を全員処刑し、近くの聖ジェリー修道院を焼く。
4月6日以降 – 国境を越えてフランスに侵入し、ラン 、ランス 、シャロン、メス 、ゴルズを焼く。その後、ブルゴーニュと北イタリアを経由してハンガリーに帰還[ 66] 。
プロヴァンスにおけるムスリムの飛び地フラクシネトゥム を攻撃。両者が争っているところにブルグント王 コンラート が不意打ちを仕掛け、両者を破る[ 67] 。
955年
7月中旬 – バイエルンとザクセンの反乱軍の要請を受け、ブルチュー、レヘル、スル、タクソニといった指揮官たちに率いられドイツに侵攻。バイエルンを掠奪し、シュヴァーベンに入って多くの修道院を焼き払う。
8月初旬 – アウクスブルクの包囲を開始。
8月10日 – 第二次レヒフェルトの戦い でマジャル人に敗北、アウクスブルクから撤退。ただし東フランク側も、ロタリンギア公コンラート、伯のディートパルト、アールガウ 伯ウルリッヒ、バイエルンの伯ベルトルトが戦死するなど多大な損害を受けた[ 68] 。
8月10-11日 – 司令官のブルチュー、レヘル、スルが東フランク軍に捕らえられ、他多くの兵が敗走中に討たれる。
8月15日 – ブルチュー、レヘル、スルがレーゲンスブルクで絞首 される[ 69] 。これをもって、マジャル人の西方遠征は終結する。
最後の南方侵略
957年 – 東ローマ帝国が貢納を停止。
959年4-5月 – アポルに率いられ、東ローマ帝国を攻撃。各地を掠奪しながらコンスタンティノープルに至る。しかし帰路で東ローマ軍の夜襲を受け敗北[ 70] 。
961年 – トラキアとマケドニアを攻めるが、東ローマ軍の夜襲に敗れる[ 70] 。
966年 – 第一次ブルガリア帝国を攻め、ペタル1世 に東ローマ帝国までの通過を認めさせる[ 71] 。
968年 – 2手に分かれて東ローマ帝国に侵攻。一隊(300人)はテッサロニキ 周辺で500人のギリシア人捕虜を獲得してハンガリーに帰還。もう一隊(200人)は東ローマ軍の奇襲を受けて敗れる。40人が捕虜となり、皇帝ニケフォロス2世フォカス の親衛隊とされる[ 72] 。
970年 – キエフ大公 スヴャトスラフ1世 を支援して東ローマ帝国を攻撃するが、アルカディオポリスの戦い で東ローマ軍に敗北[ 73] マジャル人の侵略の終結。
戦術
マジャル人戦士
マジャル人軍団のほとんどは軽騎兵で、高い機動性を誇った[ 74] 。彼らは前触れなしに襲い掛かり、地方を迅速に略奪し、敵の反撃が組織される前に撤退した[ 74] 。敵軍との戦闘に持ち込まれた場合は、マジャル人はまず矢を放って敵を威嚇するとすぐさま撤退した。敵がこの誘いに乗って戦列を崩し追撃してきたところで反撃に転じ、敵を壊滅させた[ 74] 。この偽装退却 戦術は遊牧民などに広くみられる戦法で、他の時代にもヨーロッパ人はパルティア やモンゴル帝国 などの偽装退却戦術に苦しめられている。
その後
マジャル人は、定住する地を求めて中欧に侵攻した最後の人々だった[ 74] 。955年のレヒフェルトの戦いをもって、90年に及んだマジャル人の西欧侵攻が終結するとともに、彼らの生き残りはカルパチア盆地 に落ち着いてハンガリー王国 を建国する元となった[ 75] 。これ以降、マジャル人は西欧の封建体制 や重騎兵中心の軍制、キリスト教 などを受容していった[ 74] 。
脚注
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外部リンク