ポール・セリュジエ
ポール・セリュジエ(仏: Paul Sérusier, 1864年11月9日 - 1927年10月6日[1]/10月7日[要出典])は、フランス・パリ出身のポスト印象派の画家。ナビ派の一員として知られている。 生涯パリに生まれた。父親は香水作りの会社を経営する実業家で、パリの名門高校で哲学や古典語などを学んだ。しばらく父親の友人の会社で働いた後、1885年にパリの私立の美術学校、アカデミー・ジュリアンに入学し[2]、陽気な性格は教師や学生たちに愛された。後にナビ派のメンバーとなる画家、モーリス・ドニ(1870-1943)とはこの学生時代から友人となった。 1888年の夏をブルターニュの芸術家村、ポン=タヴァンで過ごした。当時ポン=タヴァンには、エミール・ベルナールとポール・ゴーギャンを中心とする画家のグループがいた。セリュジエはゴーギャンの指導を受けた[3]。パリに戻り、ゴーギャンの指導を受けて描いた「タリスマン」という絵画を示し、ゴーギャンから学んだアイデアについて友人たちと熱心に議論した。1889年の夏にもポン=タヴァンに滞在し、セリュジエのとまったPouldu村の宿屋は「ポン=タヴァン派」の拠点となった。 ピエール・ボナールやモーリス・ドニ、アンリ=ガブリエル・イベルス、ポール・ランソンとともに「ナビ派」と呼ばれる画家のグループが作られ、後にアルマン・セガンやエドゥアール・ヴュイヤール、ケル・グザヴィエ・ルーセルらが加わった。1891年にゴーギャンがタヒチに移った後、グループの結束は緩み、それぞれの画家が独自の画風にかわっていくことになった。1892年にはセリュジエもポン=タヴァンへは行かず、ブルターニュのユエルゴアで過ごした。その後パリで俳優で演出家のリュニェ=ポー(Lugné-Poe)の舞台美術の仕事もした。 作品関連項目脚注
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