ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク
ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク (Henriette Alexandrine von Nassau-Weilburg, 1797年10月30日 - 1829年12月29日)は、オーストリア大公・テシェン(チェシン)公カールの妃。 生涯ヘンリエッテ・アレクサンドリーネはナッサウ=ヴァイルブルク侯フリードリヒ・ヴィルヘルムと、その妻でザイン=ハヒェンブルク伯領の女子相続人であるルイーゼ・フォン・キルヒベルク(1772年 - 1827年)の次女として、バイロイトのエレミタージュ宮殿で生まれた。ナッサウ公ヴィルヘルムの妹で、ルクセンブルク大公アドルフの叔母に当たる。 父方の祖父母はナッサウ=ヴァイルブルク侯カール・クリスティアンとその妃のオラニエ=ナッサウ公女カロリーネである。祖母カロリーネはオラニエ公ウィレム4世とイギリスのプリンセス・ロイヤル、アンの娘だった。曾祖母のアンはイギリス王ジョージ2世とキャロライン・オブ・アーンズバック夫妻の長女である。 18歳になる直前の1815年9月17日、ヴァイルブルクで44歳のオーストリア大公カールと結婚した。カールは神聖ローマ皇帝レオポルト2世とその皇后マリア・ルドヴィカの息子だが、子供のいなかった伯母のテシェン女公マリア・クリスティーナとテシェン公アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェンの養子になって育てられた。結婚した時点でのカールはテシェン公位の相続人であり、7年後の1822年に継承した。 2人の結婚は非常に幸福なものになり、5男2女の7子を儲けた。 ウィーン会議の際、ファニー・フォン・アルンシュタイン男爵夫人はベルリンのクリスマスツリーを飾る習慣を紹介した。それを1816年からヘンリエッテ・アレクサンドリーネが自身の家庭に取り入れて飾ったことにより、ウィーンにクリスマスツリーを普及させた人物として知られている[1]。 1829年、猩紅熱に罹った子どもを看病する間に同じ病気になり、32歳で亡くなった。カプツィーナー教会地下にあるカプツィーナー納骨堂に埋葬されている。ヘンリエッテ・アレクサンドリーネはカトリックのハプスブルク=ロートリンゲン家の一族が安置されるこの納骨堂の中で、唯一のプロテスタント教徒の埋葬者である。これは義兄のフランツ1世の命令により許可された。 子女
注釈
出典
外部リンク
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