ヘル (ポーランド)
ヘル(ポーランド語: Hel、[xɛl] ( 音声ファイル)、カシューブ語: Hél(ヘール)、ドイツ語: Hela(ヘーラ))は、ポーランド ポモージェ県プツク郡にある町。ポーランド本土から33キロほど離れた、ヘル半島の先端部に位置する。 歴史1198年に、Gellen というニシンの交易地の中心として、カシュビアのヘル村が記録されている。1219年のデンマークの年代記には、ヴァルデマー2世の船が難破して「ヘル島」の海岸に漂着したとある。村は13世紀までに、グダニスク(ドイツ名:ダンツィヒ)と並ぶこの地域の交易の中心地に成長し、ポモージェ公シフィエントペウク2世から都市権が与えられた。この特権は1378年、町がドイツ騎士団の支配下に入って正式に承認された。 かつての市街は、現在の町の中心部から1.5キロほど離れた地点にあった。そこには一軒の教会、病院、市役所、二箇所の市場、数軒の旅籠、小さな港があった。しかし、15世紀になって海水が半島を侵食しはじめたため、市街は安全な場所に移された。漁師の守護聖人にささげられた聖ピョートル教会は、1417年に建立された。ヘルは発展の時代を迎えるが、急速に力をつけてきたグダニスク市にはかなわなかった。1466年、カジミェシュ4世が町をグダニスク領に封じたことで、グダニスク湾の覇権をめぐる1世紀におよんだ争いは終わった。1526年、ジグムント1世はヘルに与えられていたすべての特権を廃止し、町とその半島をグダニスク市に売却した。以来、ヘルの命運はより大きな近隣の都市次第となった。 17世紀から18世紀にかけて、戦乱や天災が続き、町は深刻な被害を受けた。人口の減少は甚だしく、新しく発足したドイツ帝国のポズナニ州は1872年、ヘルが6世紀にわたって守ってきた都市権を取り消した。このため、ヘラ村(ドイツ語ではこういう)はその重要性をほとんど喪失した。 1893年、村に漁港がつくられ、衰退に歯止めがかかった。漁港は漁船団に避難所を提供し、週末にはグダニスクやソポト(ドイツ名:ツォッポト)市民の人気の行楽地となった。村は1896年、海浜リゾート地として認定された。 第一次世界大戦とヴェルサイユ条約の結果、ポーランドが独立国として再興されると、ヘルもその一部となった。1921年には、半島を通って町と本土を結ぶ鉄道が開通した。ポモージェ県は村に道路も敷設しようと計画したが、それには当時、半島があまりに狭あいであることが分かった。まもなく、ヘルはポーランド領ポモージェ地方有数の観光地になった。郊外には観光客向けの別荘とならんで教会、学校、漁業施設、地球物理学観測所ができた。加えて、ポーランド海軍の二箇所の重要基地のうちのひとつが置かれた。港は拡張され、大統領は1936年、この半島をポーランド陸軍管轄の「防衛地域」とすると宣言した。海軍基地は大拡張され、軍事施設をまもるため、要塞砲が配置された。 ポーランド侵攻で、ヘル半島のポーランド陸軍は最も頑強に抵抗を続けた。「ヘルの守護神」ことスタニスワフ・ズワルティンスキー将軍麾下の沿岸防衛軍部隊およそ3000名が、圧倒的な力の差のなか10月2日まで持ちこたえた。降伏直後、ポーランド軍の工兵が無数の魚雷弾頭を炸裂させたため、半島は本土から切り離されて孤島になった。第二次世界大戦中、ヘルの海軍基地はドイツ海軍がUボート乗組員の教練場として利用した。終戦時、村はポーランドで最も解放が遅れた。この地に駐留していたドイツ軍部隊が降伏したのは、ドイツが降伏した6日後の1945年5月14日であった。 戦後、村には再び海軍基地が置かれた。1960年には、本土のヤスタルニアから道路が通じた。その3年後、都市権を回復した。観光業も復調し、ホテルやゲストハウス、別荘が建設された。1996年、ポーランド海軍は半島に所有していたすべての土地を行政に売却し、現在の小規模な基地を保有するのみとなった。 今日、港はヨットの船だまりとなっている。海洋生物学研究所が置かれ、町内には至るところに海軍の兵器や設備が放置されている。 ヘルの東端はかつて軍用地だったが、現在は一般人も立ち入れるため、半島を完全に歩いてめぐることができる。 気候
交通
脚注
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