前のアイルランド上王であった南イー・ネールの王ドムナルの子モール・セックネール(Máel Sechnaill mac Domnaill)は、同族である北イー・ネールの主力の2つの分家ケネル・エオガン(Cenél nEógain)とケネル・ゴニル(Cenél Conaill)に見捨てられながらも、1002年にアスロン(Athlone)でブライアンを新しい上王として認めた。 続く10年間、ブライアンは彼の権限を拒絶した北イー・ネール、頻繁に抵抗のあったレンスター地方、ノース系アイルランド人のダブリン王国に対して戦った。
ブライアンが苦労して手にした権威は1013年に、同盟者モール・セックネールがケネル・エオガン王フライスバールタッハ・イー・ネール(Flaithbertach Ua Néill)とアルスター人から攻撃されたときに深刻な試練を受けた。この試練はダブリン王シトリック・シルケンベアード(Sihtric Silkbeard、別名Sigtrygg Silkbeard)配下のダブリン人とレンスター王ムラハダの子モール・モルダ(Máel Mórda mac Murchada)に率いられたレンスター人によるモール・セックネールへの攻撃へと続いた。1013年にブライアンはこれらの敵と戦闘を行った。
シャノン川はコノート・ミース両地方の急襲に手頃な経路だった。 ブライアンの父ケネティクと兄マスガマンは川輸送の強襲を実行しており、そこに若いブライアンは間違いなく参加していたと思われる。これはおそらく後に彼が評価を受ける経歴の1つである海軍のルーツだろう。
このドール・カイスに対する重要な影響は、シャノン川の曲がる地峡に位置する (今日では王の島(en:King's Island, Limerick)なりアイランド・フィールド(Island Field)の名で知られる) ノース系アイルランド人の都市リムリックの存在だった。
ノース人はシャノン川からたくさんの襲撃を受け、そしてその襲撃の度にドール・カイスはおそらく優れた武器や船の設計、成長力に寄与するであろうすべての要因のような技術革新に触れるなど、いくらかの影響を受けていたと思われる。
兄マスガマンの統治
964年、ブライアンの兄マスガマンは、古くからの由緒あるマンスターの王朝オーガノクト(en:Eóganachta)の都キャッシェル(en:Cashel, County Tipperary)を攻撃して名高い城ロック・オブ・キャシェル(Rock of Cashel)を占領し、マンスター地方全土の支配を主張した。オーガノクトは世襲の王権であり時にはマンスター上王であったが、王朝内部の闘争と度重なる暗殺によって今や無力なまでに弱まっていた。 初めの頃のウィ・ニールとヴァイキング双方からの攻撃も要因の一部であった。
この状況は(オーガノクトにとって)正統的でない地方王権を奪おうと試みる軍国化したドール・カイスの行動を許した。しかしながら、マスガマンは決して完全には認められず、キャシェルからは半ば部外者ながら遠くマンスター南部に勢力を持つ正統なオーガノクトの要求者ブライアンの子モール・ムアドによって960年代と970年代を通じて否定を受け続けた。
また、モール・ムアドに加えて、ノース人の王 リムリックのイーヴァル(Ivar of Limerick)は脅威であった。イーヴァルは、 地方かその中の地域でのいくらかの王権の確立を試みようとしていたようでもあり、アイルランドの諸国との戦争は実は彼がこれを達成していたとさえ主張している。
イーヴァルは名高い967年のスルコイトの戦い(Battle of Sulcoit)でマスガマンによって打ち破られたが、しかしながらこの勝利はまだ決定的なものではなく、ノース人の"兵士"や"当局"をマンスターから追い出すためマスガマンはモール・ムアド達と一種の短期軍事同盟を結び、やっとのことで972年にリムリックの要塞を破壊した[6]。
しかし、権力を要求するアイルランド人の二者はすぐに戦闘状態に戻った。そして、976年に偶然カハルの子ドヌバン(Donnubán mac Cathail)がマスガマンを捕虜にしたことでモール・ムアドは彼を殺し、続く2年間キャシェルの王として支配した。
ブライアンはマスガマンの後を継いだ。ドール・カイスは兄マスガマンがいなくなった後も依然として強い軍事力を保持しており、ブライアンはすぐに自身が兄と同様に優秀な軍事司令官であることを証明した。 既に十分弱体化していたイーヴァルを977年に片付けた後、彼は978年にモール・モルダに挑戦して決定的なベラク・レクタの戦い(Battle of Belach Lechta)で打ち負かした。もはやオーガノクトはマンスターでの存在を失い、血統に基づいたこの地方の伝統的な王位でないながらもブライアンとドール・カイスは覇権を握った。モール・ムアドへの勝利と前後して、ブライアンはドヌバンとカハー・クアンの戦い(Battle of Cathair Cuan)におけるノース人軍の残党を一掃し、おそらくイーヴァルの息子たちと後継者アラルト(Aralt)を滅ぼした。彼はそれからノース人の一部に今の住まいにとどまり続けることを許したが、彼らは裕福であり今や経済源となったブライアンの艦隊との地域の取引の中心だった.
兄マスガマンの宿敵モール・ムアドの息子キアン(Cian mac Máelmuaid)は、のちにブライアンの忠実な盟友となり彼の下でたくさんの活動に携わった。
彼がきっちりブライアンの権力に従ったので、998年にレンスター王が屈服しムラハダの子モール・モルダ(Máel Morda mac Murchada)に交代した。モール・モルダが置かれたこの状況下で、公然とブライアンの権威への抵抗を起こしたことは驚くものではない。それに応えてブライアンは、モール・モルダの盟友であり従兄弟のシトリック・シルケンベアードの支配していたアイルランド系ノース人の都市ダブリンの包囲を意図してマンスター地方の軍力を集めた。 モール・モルダとシトリックは共に、攻城戦の危険を回避してブライアンの軍と会戦することを決めた。そうして999年、ブライアンと反乱軍はグレン・モーマの戦い(Battle of Glen Mama)で戦った。
ブライアンの野心は997 年の和解では満たされていなかった。それは1000年、彼が上王モール・セックネールの領地ミース地方へマンスター=レンスター=ダブリン連合軍による攻撃を主導したことで明確になった。アイルランド全土の覇権を巡る争いが再開された。
モール・セックネールの最も重要な同盟者はコノート王タイグの子コンホバルの子カハル(Cathal mac Conchobar mac Taidg、オコーナー(英語版)一族)だったが、これはたくさんの問題をはらんでいた。ミース地方とコノート地方はシャノン川によって分断されていたが、これはブライアンの海軍がどちらの地方の岸も攻撃できるルートであり、一方で二人の支配者が攻撃しあう際の障壁として機能していた。モール・セックネールは、2つの橋をシャノン川にかけるという独創的な解決法を思いついた。これらの橋は シャノン川を遡上するブライアンの艦隊を妨げる障害として、一方でミース地方とコノート地方の軍が互いの王国を行き来できる手段として機能するだろう。
ブライアンの子孫は、Ó Briain、O'BrienO'Brianなどの姓を名乗るウィ・ブライアン(Ui Briain)(オブライアンO'Brien)氏族として知られる。"O"は元々"Ó"であり、更にÓ は名前を挙げられた人の孫や子孫を意味する"Ua"から来ている。接頭辞はよく、ゲール語のアキュート・アクセント(síneadh fada)である"´"の代わりにアポストロフィを用いて「O'」と英語表現されている。オブライアン家は後にアイルランドの主要な王朝血族の1つに位置づけられる。(en:Chiefs of the Nameを参照).
大衆文化
ドーナル・オニール(Donal O'Neill)のブライアン・ボルについての歴史小説 死の子孫(Sons of Death、1988年)は、ブライアンの王宮の若い貴族メルパトリック(MelPatrick)の視点から語っている。フィクションとして、遠い昔に失われたブライアンのサガを出典に用いたとしている。なお、この小説は紀元前800年頃に始まるアイルランドの歴史に基づいたシリーズの第3巻である。(第1巻るつぼ(Crucible)、第2巻神々と男たち(Of Gods and Men))
モーガン・リウェリンは、アイルランドのライオン(Lion of Ireland)と銘してブライアンの生涯を小説化した。続編ライオンたちの誇り(Pride of Lions)は、彼の息子ドノー(Donough)とティーグ(Teigue)の王冠を巡った争いの物語を語っている。
^Grant, R. G.; Doughty, Robert (2011). 1001 Battles That Changed the Course of World History. Random House. p. 128. ISBN978-0-7893-2233-3. "They discovered Brian Boru praying in his tent and killed him and his retainers."
McCullough, David Willis (2002). Wars of the Irish Kings: A Thousand Years of Struggle, from the Age of Myth Through the Reign of Queen Elizabeth I. Random House. ISBN978-0-609-80907-5
Jaski, Bart (2005). "Brian Boru (926[?]–1014)". In Seán Duffy (ed.). Medieval Ireland. An Encyclopedia. Abingdon and New York. pp. 45–47.
Ní Mhaonaigh, Máire (2007). Brian Boru. Ireland's greatest king?. Stroud: Tempus. ISBN978-0-7524-2921-2
Ó Corráin, Donncha (1972). Ireland before the Normans. The Gill History of Ireland. 2 (1st ed.). Dublin: Gill & Macmillan. ISBN0-7171-0559-8
参考文献
MacShamhráin, Ailbhe (2001). "The Battle of Glenn Máma, Dublin and the High-Kingship of Ireland: A Millennial Commemoration". In Seán Duffy (ed.). Medieval Dublin II. Dublin: Four Courts Press. pp. 53–64.
O'Brien, Donough (1949). History of the O'Briens from Brian Boroimhe, A.D. 1000 to A.D. 1945. B. T. Batsford
Ó Corráin, Donnchad (1972). Ireland before the Normans. Dublin: Gill and Macmillan. pp. 111–131
Ryan, John (1967). "Brian Boruma, King of Ireland". In Etienne Rynne (ed.). North Munster Studies. Limerick: Thomond Archaeological Society. pp. 355–374.