フリードリヒ・クリスティアン・フォン・ザクセン
フリードリヒ・クリスティアン・フォン・ザクセン(ドイツ語: Friedrich Christian von Sachsen, 1893年12月31日 - 1968年8月9日)は、ザクセン王家家長(1932年 - 1968年)。ザクセン王家家長の儀礼称号としてはマイセン辺境伯を称した。 生涯最後のザクセン王フリードリヒ・アウグスト3世とその妃のエスターライヒ=トスカーナ大公女ルイーゼの次男として、ドレスデンに生まれた。父王はドイツ革命の煽りを受けて1918年11月に退位し、王政も廃止された。1923年に聖職者となった兄ゲオルクが王位継承権を放棄したため、フリードリヒ・クリスティアンはザクセン王家の推定相続人となり、1932年にフリードリヒ・アウグスト3世が死去すると、家長位を継承した。 1933年、かつてザクセン選帝侯領が18世紀にポーランド・リトアニア共和国と同君連合を結んでいた関係で、ポーランド政府がフリードリヒ・クリスティアンにポーランド王となってくれるよう打診した。しかしアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党の台頭、また第二次世界大戦とその後のポーランド共産化のため、フリードリヒ・クリスティアンを王に迎えてのポーランド王国復活は実現しなかった。 子女1923年、トゥルン・ウント・タクシス侯アルベルトの長女エリーザベト・ヘレーネと結婚し、2男3女を儲けた。
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