フランスSS突撃大隊 (独 :Französische SS-Sturmbataillon)[ 注 1] は、第二次世界大戦 (独ソ戦 )末期ドイツ国 (ナチス・ドイツ )の武装親衛隊 フランス人 義勇兵 部隊(1945年4月末のベルリン市街戦 でソビエト 赤軍 と交戦した武装親衛隊フランス人義勇兵1個大隊 )。
1945年3月に東部戦線 のポメラニア で壊滅した第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」 (33. Waffen-Grenadier-Division der SS „Charlemagne“)の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵で構成。アンリ・フネ SS義勇大尉 (SS-Frw. Hstuf. Henri Fenet )を指揮官として1945年4月末のベルリン市街戦 に参加し、ベルリン 市街南東~中央部(ノイケルン区 、テンペルホーフ区 、クロイツベルク区 、ミッテ区 )における市街戦 で赤軍戦車 を50輌以上[ 注 2] (資料・文献によっては60輌[ 3] 、62輌[ 4] )撃破した。
彼らと共にベルリン に到着し、現地で戦闘中の第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」 の師団長 に就任したフランスSS部隊総監・元「シャルルマーニュ」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将 (SS-Brigf. Gustav Krukenberg )は戦後、ベルリン市街戦における武装親衛隊フランス人義勇兵の奮戦を次のように総括した[ 2] [ 注 3] 。
「
フランス人たちがいなかったら、ロシア軍は8日早くベルリンを制圧していただろう・・・
」
背景
1945年3月 「シャルルマーニュ」師団壊滅・再編成
独ソ戦 末期の1945年3月初旬から中旬の間、武装親衛隊 の第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」 はポメラニア 戦線で圧倒的多数のソビエト 赤軍 [ 注 4] と交戦し、師団の主要な将校 (初代師団長 、師団参謀長 、連隊長 2名、大隊長 多数、その他)を含む約5,000名の将兵を失って壊滅した。
ポメラニアで散り散りになった「シャルルマーニュ」師団の生存者は個人もしくはグループで行動し、それぞれ陸路や海路でドイツ 本土への撤退を試みた。これらの生存者の中で最大のグループは、フランスSS部隊総監兼2代目師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将と歴戦のフランス人将校アンリ・フネ SS義勇中尉に率いられていた行進連隊第Ⅰ大隊(Ier Bataillon / Régiment de Marche)であった。この行進連隊第Ⅰ大隊(将兵約800名)は3月中旬にバルト海 沿岸部の都市ディフェノ(Dievenow 、現ジブヌフ(Dziwnów ))経由でドイツ北部へ撤退することに成功した。
1945年3月24日、先のポメラニア戦線で大損害を被った「シャルルマーニュ」師団の生存者はノイシュトレーリッツ (Neustrelitz )に移動し、師団司令部をカルピン(Carpin :ベルリン から約90キロメートル北に位置する町村)に設置。1個連隊 規模に減少した「シャルルマーニュ」師団の将兵はカルピン周辺に駐屯し、訓練や対戦車障害物建設工事に従事して時を過ごした。
1945年4月24日未明 出撃命令通達
1945年4月16日朝、ソビエト 赤軍 はオーデル川 沿いに展開するドイツ第9軍 と第4装甲軍 に対する大攻勢を開始した(ゼーロウ高地の戦い )。ベルリンの戦い の前哨戦であるこの戦いでドイツ軍部隊は後退しつつ頑強に抵抗したが、19日に赤軍はドイツ軍戦線を突破し、間もなくドイツ国 の首都ベルリン (Berlin )を包囲した。
1945年4月24日午前3時頃、ドイツ北部駐屯中の「シャルルマーニュ」師団のもとへ、赤軍包囲下のベルリン から複数の出撃命令がテレグラム で通達された。そのうちの1つの内容は次の通り[ 6] [ 7] (総統大本営 から通達された出撃命令のうちの1つ(アドルフ・ヒトラー 総統 の署名入りテレグラム)の存在は、ヒトラーの個人副官 オットー・ギュンシェ SS少佐 (SS-Stubaf. Otto Günsche )によって戦後に証明された)[ 8] 。
« Division Charlemagne unter Ausnützung aller Verkehrsmöglichkeiten sofort Ei(n)satz Berlin. Meldung reich(s)kanzlei. Adolf Hitler. »※
(シャルルマーニュ師団 はあらゆる交通手段を用いて直ちにベルリン へ出撃せよ。総統官邸 通知。アドルフ・ヒトラー )
※ 原文は()内の文字が欠落している。
しかし、「シャルルマーニュ」師団の手元には師団将兵(この時点で約1,000名)全員に行き渡るほど十分な量の武器 が無く、また、全員を輸送するほど十分な量の交通手段(車輌)も無かった。これらの事情により、赤軍包囲下のベルリンへ直ちに出撃可能な部隊は「シャルルマーニュ」師団の一部のみであった。
フランスSS突撃大隊の人数
1945年4月24日 ベルリンへの出発
1945年4月25日 ベルリンにおける最初の日々
1945年4月26日 ノイケルンの戦い
1945年4月27日
1945年4月28日
1945年4月29日
フランスSS突撃大隊の騎士鉄十字章受章者
第二次世界大戦最後の騎士鉄十字章
1945年4月29日、ベルリン ・ミッテ区 のベルリン地下鉄 シュタットミッテ駅(U-Bahnhof Stadtmitte )に設置されている「ノルトラント」師団 司令部の中で、「ノルトラント」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将は不安感に苛まれていた。ベルリン 防衛司令官ヘルムート・ヴァイトリング 砲兵大将が催す作戦会議に参加せよとの命令も無く、師団司令部には無線機 も設置されていないという状況の中、クルケンベルクが外界の情報を得るにはフランスSS突撃大隊指揮官アンリ・フネ SS義勇大尉や、戦術学校指揮官ヴィルヘルム・ヴェーバー SS中尉から送られてくる伝令に頼るほかなかった。
そのようにしてもたらされた情報によって、クルケンベルクはフランス人義勇兵ウジェーヌ・ヴォロ 武装伍長(W-Uscha. Eugène Vaulot )が市街戦中に合計8輌の赤軍 戦車 を撃破したことを知り、ヴォロを騎士鉄十字章 受章者候補に推薦した。
1945年4月29日午後、シュタットミッテ駅構内の地下鉄 車輌内において「ノルトラント」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将は、「短いローソク のゆらめく光の中で」[ 9] ウジェーヌ・ヴォロ 武装伍長に騎士鉄十字章 を授与した。クルケンベルクは戦後に著した回顧録の中で、1945年4月29日の出来事を次のように述べている[ 10] 。
しかし、武装親衛隊 の騎士鉄十字章 受章者について述べたErnst-Günther Krätschmerの著書 « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS » (初版:1950年~第5版:2002年)によると、同じく1945年4月29日にウジェーヌ・ヴォロ武装伍長とフリードリヒ・ヘルツィヒSS少佐以外にも騎士鉄十字章を授与された者がおり、その中には
も含まれている[ 11] 。戦後のクルケンベルクは、戦時中の公式勲記が存在しないことを理由にウジェーヌ・ヴォロ以外のフランスSS突撃大隊の将兵(ヴェーバー、フネ、アポロ )に対する騎士鉄十字章授与が本当になされたのかどうかを疑問視したが、ヴェーバー、フネ、アポロ に対して騎士鉄十字章が授与されたことを示唆する記録として以下の説が現在までに伝わっている。
ヴィルヘルム・ヴェーバーに対する騎士鉄十字章授与
モーンケSS少将による勲章授与
ヴィルヘルム・ヴェーバー SS中尉、ヴィルヘルム・モーンケ SS少将、パウル・パシュールSS大尉(SS-Hstuf. Paul Pachur:クルケンベルクSS少将の第1補佐)の目撃証言に基づく記録(Charles Georgenの著書)によると、1945年4月29日、ヴェーバーSS中尉は市街戦で負傷し、総統官邸 の地下(総統地下壕 )にある野戦病院 へ搬送された。「前線から下がってきた将校の大多数のように」ヴェーバーもこの時、総統官邸の地下に司令部を置く「Z」地区(官庁街)防衛司令官モーンケSS少将に戦況を詳しく説明した。ヴェーバーの報告を聞いた後、モーンケは陸軍人事局(Heerespersonalamt (HPA) )責任者ヴィルヘルム・ブルクドルフ 歩兵大将 (Gen.d.Inf. Wilhelm Burgdorf )のもとへ赴き、フランスSS突撃大隊の将校・下士官数名に対する騎士鉄十字章 授与の約束をとりつけた。
同日、ブルクドルフは書類にサインし、モーンケに勲記と勲章を手渡した。こうして、推薦が認められてから数時間も経たないうちにモーンケはヴェーバーに騎士鉄十字章を授与した[ 10] [ 12] 。
異説
Saint-Loup « Les Hérétiques » (Presses de la Cité, 1965)の記述によると、ヴェーバーSS中尉は1945年4月30日早朝に負傷し、親衛隊全国指導者 地下壕を経て総統地下壕 に運ばれた。
その際にヴィルヘルム・モーンケ SS少将は、ウジェーヌ・ヴォロ が騎士鉄十字章 を授与されたことをヴェーバーに知らせ、さらに貴官(ヴェーバー)とアンリ・フネ とフランソワ・アポロ も騎士鉄十字章を授与されたと伝えた。そしてモーンケは、騎士鉄十字章授与に関する書類をグスタフ・クルケンベルクSS少将が受け取ることになっていると付け加えたが、結局クルケンベルクのもとに書類は届かなかった(Saint-Loupは、この書類は道中で紛失したか、もしくは最初から送られなかったためにクルケンベルクのもとへ届かなかったと説明している)[ 10] [ 注 5] 。
アンリ・フネに対する騎士鉄十字章授与
口頭での授与約束
Jean Mabire « Mourir à Berlin » (Fayrad, 1975)の記述によると、1945年4月29日午後、「ノルトラント」師団 のスカンディナヴィア 人SS中尉[ 注 6] がフランスSS突撃大隊本部を訪問した。この「類稀なお隣さん」(フランス人義勇兵たち)への賞賛の意を込めて、スカンディナヴィア人SS中尉はその場にいた者たちにワイン ボトルをプレゼントした。その際に彼はフランスSS突撃大隊指揮官アンリ・フネ SS義勇大尉の補佐アルフレッド・ドゥールー武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Alfred Douroux)に対し、「フネ大尉は騎士鉄十字章 の授与が約束されている」とささやいた。
もっとも、フネに対する騎士鉄十字章の授与はまだ公式に発表されていなかったため、スカンディナヴィア人SS中尉はこの知らせをフネ自身には伝えなかった(しかし、ドゥールーは終戦の直前にこの知らせをフネに伝えた)。それからフネは戦後に至るまで、騎士鉄十字章を授与されたことに関する情報は何も聞かされなかった[ 10] [ 注 7] 。
異説
フランスSS突撃大隊第3中隊長ピエール・ロスタン 武装上級曹長(W-Hscha. Pierre Rostaing)の回顧録 « Le prix d'un serment » (La Table Ronde, 1975)p200の記述によると、1945年4月29日、ベルリン市街の図書館 の地下室において大隊長アンリ・フネ はロスタンのために一級鉄十字章 の授与式を執り行ったが、その時のフネはグスタフ・クルケンベルク SS少将から授与された騎士鉄十字章 を首に佩用していたという(ただし、この記述は裏付けが取れていない)[ 15] 。
総括
1945年4月29日、フランスSS突撃大隊戦術学校のフランス人義勇兵ウジェーヌ・ヴォロ 武装伍長は、「ノルトラント」師団 長グスタフ・クルケンベルクSS少将から直々に騎士鉄十字章 を授与された(騎士鉄十字章授与が約束された武装親衛隊フランス人義勇兵(ヴォロ、フネ、アポロ )のうち、ベルリン市街戦の混乱状態の中で実際に騎士鉄十字章を授与された人物はウジェーヌ・ヴォロ武装伍長のみ)[ 16] [ 17] 。
そして、1945年4月29日に負傷した戦術学校指揮官ヴィルヘルム・ヴェーバー SS中尉に対してはベルリン官庁街・総統官邸防衛司令官ヴィルヘルム・モーンケ SS少将が騎士鉄十字章を授与したが、この公式勲記(受章証書)が存在していないために戦後のクルケンベルクはヴェーバーに対する騎士鉄十字章授与を疑問視した。さらに、フランスSS突撃大隊指揮官アンリ・フネ SS義勇大尉と戦術学校第2分隊長フランソワ・アポロ 武装曹長 に対する騎士鉄十字章授与は口頭での授与約束であり、こちらも公式勲記が存在していない。そのため、彼らに対する騎士鉄十字章授与の事実を証明することは不可能であるが、「フネとヴェーバーとアポロ もベルリン市街戦 で騎士鉄十字章 を受章した」が現在の通説である[ 14] [ 注 8] 。
1945年4月30日
1945年5月1日
1945年5月2日 戦闘終了
編成
大隊長(Commandeur)
大隊の編成
フランスSS突撃大隊の各部隊の指揮官および、氏名が判明している隊員の一覧[ 18] 。
大隊本部(État Major)
隊員
ロジェ・アルベール=ブリュネSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Roger Albert-Brunet)
クラウデ・カパルト武装伍長(W-Uscha. Claude Capard)(大隊書記 )※ フラマン 人。5月2日午後のベルリン脱出時は第3中隊長ピエール・ロスタン 武装上級曹長のグループに同行
フィンクSS伍長(SS-Uscha. Fink)(大隊書記)
ギイ・ラコンブSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Guy Lacombe:通称「ビク」(« Bicou »))[ 19]
ロジェ・ロベルティSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Roger Roberti)(伝令)
マックス・ヴァルターSS伍長(SS-Uscha. Max Walter)[ 20] (通訳 )
ピエール・ミレSS義勇兵長(SS-Frw. Rttf. Pierre Millet)(伝令班長)
ジョルジュ・クーテュラン(Georges Couturin)
その他
第1中隊(1ère compagnie)
隊員
アルベール・ロブラン武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Albert Robelin)(第?小隊第?分隊長 )
クロード・クランSS義勇連隊付士官候補生(SS-Frw. StdJu. Claude Cren)(第1小隊第3分隊長)
ルフェーヴル武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Lefeuvre)
ガブリエル・ジェラール武装伍長(W-Uscha. Gabriel Gerard)
ジャン=ルイ・ピュエクロン SS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Jean-Louis Puechlong)
その他
第2中隊(2ème compagnie)
隊員
ルネ・ビローSS義勇連隊付士官候補生(SS-Frw. StdJu. René Billot)
レイモン・ブリュアSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Raymond Bruhat)
ベルナール・フォーデ武装伍長(W-Uscha. Bernard Fodé)(第3小隊第?分隊長)
ジャン=フランソワ・ラプロー武装伍長(W-Uscha. Jean-François Laplaud)(第3小隊フォーデ分隊)
P=J・リシャール武装伍長(W-Uscha. P.-J. Richard)
H・サヴィヤン武装伍長(W-Uscha. H. Savouillan)
ディスパンSS義勇二等兵(SS-Frw. Schütze Dispans)
ジャック・ロンジエ武装二等兵(W-Gren. Jacques Ronzier)
その他
第3中隊(3ème compagnie)
隊員
ピルザン武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Pilsin)
ギイ・デデュー武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Guy Dedieu)
ナルシス・デデュー武装曹長(W-Oscha. Narcisse Dedieu)
グザヴィエ・アラン武装伍長(W-Uscha. Xavier Allain)
ドラルー武装伍長(W-Uscha. Delarue)
フランソワ・ド・ラニュリアンSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. François de Lannurien )(第?小隊第?分隊長)[ 注 10]
カロン武装兵長(W-Rttf. Caron)
ジャック・エヴラルSS義勇兵長(SS-Frw. Rttf. Jacques Evrard)(主計 (元衛生兵 ))※ 5月1日夜~2日未明のベルリン脱出時は戦術学校指揮官ヴィルヘルム・ヴェーバー SS中尉に同行
バルフィーユ武装上等兵(W-Strmm. Barfeuille)(第1小隊第2分隊所属)
ジョゼフ・ティリエ武装二等兵(W-Gren. Joseph Tillier)
アルボネル(Arbonnel)
ロスフェルダー(Rosfelder)※ アルザス人 [ 23]
その他
第4中隊(4ème compagnie)
隊員
ルロア武装伍長(W-Uscha. Leroy)
ガストン・クーロンSS義勇上等兵(SS-Frw. Strmm. Gaston Coulomb)
その他
戦術学校(Kampfschule )
隊員
フランソワ・アポロ 武装曹長(W-Oscha. François Appolot)(第2分隊長)
ジュール・ブーコーSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Jules Boucaud)
ロベール・ヴァサールSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Robert Vassard)
ウジェーヌ・ヴォロ 武装伍長(W-Uscha. Eugène Vaulot )(第6分隊長)
ルイ・ラヴェスト 武装上等兵(W-Strmm. Louis Lavest)
クロード武装二等兵(W-Gren. Claude)
ピエール・ペルッシ武装二等兵(W-Gren. Pierre Pellucci)
その他
所属不明の隊員(Affectation inconnue)
その他
フランスSS突撃大隊将兵の個人戦車撃破数
フランス人以外の将兵
ベルリン市街戦 に参加した武装親衛隊 フランス人 義勇兵 部隊として知られるフランスSS突撃大隊であるが、大隊には少数ながら何名かのフランス以外の外国籍の隊員が所属していた。
ドイツ人
ブロックSS連隊付上級士官候補生(SS-StdObJu. Block):フランスSS突撃大隊のドイツ人士官候補生
生年月日・生誕地不明の武装親衛隊ドイツ人士官候補生 。フランスSS突撃大隊の一員としてベルリン市街戦 に参加し、4月29日の戦闘で死亡 した[ 51] 。
フィンクSS伍長(SS-Uscha. Fink):フランスSS突撃大隊本部ドイツ人書記官
アルザス 出身(生年月日は不明)のドイツ人SS伍長 。偽名 は「フィンクラー」(Finkler)。ポメラニア 戦線撤退後、カルピン (Carpin )で再編成中の「シャルルマーニュ」師団 司令部(1945年3月中旬~4月)で書記 官を務めていた。
1945年4月末のベルリン市街戦 にフランスSS突撃大隊本部書記官として参加。しかし、フィンクはその事務 的な役割よりも武器 をとって戦闘 に参加することを望んでおり、1945年4月26日のノイケルン の戦いの際には近くにいたヒトラーユーゲント の少年を捕まえて自身の職務(前線より比較的安全な大隊本部書記の仕事)を押し付け、フィンク本人は最前線 で同僚クラウデ・カパルト武装伍長(W-Uscha. Claude Capard)と連携して赤軍部隊の進撃を阻止した[ 53] [ 54] 。
ベルリン守備隊が赤軍に降伏した1945年5月2日、フィンクは大隊長アンリ・フネ SS義勇大尉のグループの一員としてベルリン脱出およびドイツ第12軍 との合流を試みて移動していたが、ポツダム広場 付近のベルリン地下鉄 の構内で赤軍 部隊に発見され、フネのグループの潜伏地点から約10メートル離れた場所で赤軍兵に捕縛された[ 54] [ 55] 。潜伏中のフネのグループが赤軍兵に発見される前に、フィンクは先に捕まった他の捕虜たちと共に地上へ連行されていった(その後の消息は不明)。
ルクセンブルク 人
フラマン人 (ベルギー王国 フランデレン地域 出身者)
クラウデ・カパルト武装伍長(W-Uscha. Claude Capard):フランスSS突撃大隊本部書記官
1927年 生まれのフラマン人 (生誕地は不明。ベルリン市街戦当時の年齢は18歳)。偽名 は「カパン」(Capand)、「カプ」(Cap)、「カパール」(Cappard)、「カパー」(Kapar)。体格は小柄。
ベルリン市街戦 でフランスSS突撃大隊本部書記 官を務めていたが、その事務的な役割よりも武器をとって戦闘に参加する方を好み、4月26日のノイケルン の戦いではMG42機関銃 手の1人として活躍。赤軍がフランスSS突撃大隊の火点(機関銃陣地)を潰そうとする度に素早く位置を変更して応戦し、同僚フィンクSS伍長(SS-Uscha. Fink)と連携して26日午後7時まで赤軍部隊の進撃を防ぎきり[ 53] 、4月27日付で二級鉄十字章 を受章した[ 59] 。
1945年5月2日夜、フランスSS突撃大隊第3中隊長ピエール・ロスタン 武装上級曹長のグループと共にポツダム広場 付近で赤軍 の捕虜 となった。捕虜を射殺するために赤軍兵が捕虜一同を壁の前に立たせた時、カパルトはそれまでの勇気を失って泣き出したが、酒 に酔った赤軍将校が赤軍兵を追い払って処刑 を中止させたため土壇場で助かり、生きて終戦を迎えた[ 59] [ 60] 。その後の消息は不明。
(元)ロシア人
フランスSS突撃大隊の装備
武器・兵器
StG44
元第57SS大隊(大隊本部、第1、第2、第4中隊)の将兵はほぼ全員が装備。ただし、第3中隊(元第58SS大隊第6中隊)の将兵でStG44を与えられた者は中隊全体の約3分の1の将兵のみであった[ 61] 。なお、戦術学校の将兵がどの程度StG44を装備していたかは不明。
パンツァーファウスト
ベルリン市街戦におけるフランス人義勇兵の主要武器の1つ。
MG42機関銃
各中隊の分隊 は少なくとも1挺のMG42機関銃を装備していた(何個かの分隊は2挺装備)[ 61] 。
4月27日、第4中隊長代行セルジュ・プロトポポフ武装連隊付士官候補生は低速で飛来した赤軍砲兵観測 機1機をMG42で撃墜した[ 62] 。また、彼は4月28日~29日の間にはベルリン・ミッテ区 のゲンダルメンマルクト(ジェンダルメンマルクト)(Gendarmenmarkt )にあるフランス大聖堂 (Französischer Dom )を前線の監視所・MG42機関銃陣地として使用した[ 63] 。
4月28日、大隊の志願者がベルリン市街の建物の屋上で敵狙撃兵 狩りを実施した際に使用。狙撃兵狩りに志願した大隊本部のロジェ・ロベルティSS義勇伍長によると、彼は「卵型手榴弾をポケットに詰め込み、柄付手榴弾を上着のボタン部分に吊り下げ、ベルトにも差し込んでいた」という[ 64] 。
なお、フランスSS突撃大隊は戦車 、対戦車砲 、榴弾砲 、迫撃砲 といった重装備を所有していなかった[ 65] (にもかかわらず、ベルリン市街戦で赤軍戦車を50輌以上撃破した)。
その他
フランスSS突撃大隊(活動期間:1945年4月24日~5月2日)を撮影した写真 は確認されていない[ 注 17] 。
脚注・出典
脚注
^ 様々な文献で、1945年4月末のベルリン市街戦 に参加した武装親衛隊フランス人義勇兵部隊はしばしば「シャルルマーニュ」(Charlemagne)の名を冠して語られている(この部隊が第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」 の生存者で構成されていたため)。具体的には、
Richard Landwehr の著書における名称: « SS-Sturmbatallion 'Charlemagne' »(SS突撃大隊「シャルルマーニュ」)
Tonny Le Tissierの著書における名称: « SS 'Charlemagne' Battalion »(SS「シャルルマーニュ」大隊)
などと表記されている(フランス語版Wikipediaにおける記事名は « Bataillon Charlemagne » (シャルルマーニュ大隊))。
しかし、実際にこの大隊の指揮官としてベルリン市街戦に参加したアンリ・フネ SS義勇大尉は、自身のベルリン市街戦の回顧録 « A Berlin Jusqu'au Bout » の中で、フランスSS突撃大隊に一切「シャルルマーニュ」の名を冠していない[ 1] 。
^ 第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」 最後の師団長グスタフ・クルケンベルク SS少将が戦後に著した回顧録の中で、フランスSS突撃大隊がベルリンで撃破したソビエト赤軍戦車の数は「約50輌」とされているが、この数字は1945年4月29日時点での記録であり、4月29日以降に大隊が撃破した赤軍戦車の数が含まれていない(1945年5月2日にベルリン守備隊が降伏するまでにフランスSS突撃大隊が撃破した赤軍戦車の総数は確実に50輌を上回っている)[ 2] 。
なお、Jean Mabire の著書 « Mourir à Berlin » (Fayard, 1975)p321(réédition : Grancher, 1995. p272)の記述によると、ベルリン市街戦の1週間のうちに武装親衛隊 の将兵がベルリン市内で撃破した赤軍戦車 ・装甲車 の数は約800輌であったという。
^ 出典は « Historia » #32 p137[ 2] 。
^ 「シャルルマーニュ」師団 がポメラニア 戦線に到着して間もない1945年2月下旬の時点で直面したソビエト赤軍の兵力は、Saint-Loup の著書と(同書の記述を引用した)Richard Landwehrの著書によると次の通り。
「シャルルマーニュ」師団の基幹部隊の1つ「第57SS所属武装擲弾兵連隊」(Waffen-Grenadier-Regiment der SS 57)がハマーシュタイン(Hammerstein 、現ツァルネ (Czarne ))周辺で直面した赤軍部隊は
第57連隊第Ⅰ大隊の戦区:2個戦車 軍団 、10個狙撃師団(歩兵 師団 )
第57連隊第Ⅱ大隊の戦区:3個戦車軍団、15個師団
であり、第57SS所属武装擲弾兵連隊の2個大隊は赤軍の5個戦車軍団と25個(歩兵)師団に直面していた。
しかし、Robert ForbesはSaint-Loup(とRichard Landwehr)の説に対し、次の点を指摘して反論している[ 5] 。
1945年2月下旬、ポメラニア戦線でノイシュテッティン(Neustettin 、現シュチェチネク (Szczecinek ):ハマーシュタインの西方20キロメートルに位置する町)の道路からバルト海 沿岸部まで進撃する任務を帯びていたソビエト赤軍部隊は第19軍と第3親衛戦車軍団のみ。このうち、第19軍の編成は
第134親衛 狙撃軍団
第40親衛狙撃軍団
第8親衛機械化軍団
第3親衛騎兵 軍団(一時的に第19軍に配属)
その他支援部隊(いくつかの独立ロケット砲 師団、砲兵 師団)
であり、第19軍の2個親衛狙撃軍団(第134、第40)はいずれも3個狙撃師団(歩兵師団)編成、第3親衛騎兵軍団は3個騎兵師団編成であった。それゆえ、ソビエト赤軍第19軍が前線に投入していた兵力は多く見積もっても9個師団であった(これを言い換えれば、赤軍は武装親衛隊の貧弱な1個フランス人義勇兵師団が展開している小さな戦区を9個師団で攻撃することが可能であった)。
また、Saint-Loupは著書の別の箇所の記述で、1945年2月25日に赤軍は「シャルルマーニュ」師団に対して4個歩兵師団、2個戦車旅団、いくつかの砲兵連隊を展開させたと述べている(先に示していた赤軍の大兵力に比較すると、もっともらしい数字になっている)。
Jean Mabire « La Division Charlemagne » (Fayard, 1974)p285, 293の記述によると、第57SS所属武装擲弾兵連隊第Ⅰ大隊が2月24日夜にハインリヒスヴァルデで直面した赤軍の兵力は2個連隊であり、第Ⅱ大隊が2月25日朝に直面した赤軍の兵力は約10,000名(貧弱な歩兵師団2個に相当)であったという。
いずれにせよ、(1945年2月下旬~3月中旬のポメラニア戦線で)「シャルルマーニュ」師団(兵力7,000名以下、戦車 ・榴弾砲 といった重装備無し)が大量の戦車・砲兵・航空機 の支援を受けたソビエト赤軍の大軍に直面したことは事実である[ 5] 。
^ 奇妙なことに、クルケンベルクの戦後の記述によるとヴェーバーは「戦争最後の日々」(ベルリン市街戦 )の中で、今次大戦における通算5輌目の敵戦車を撃破したことにより「ドイツ十字章金章 」を受章したという[ 10] 。
^ おそらくは第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」 のデンマーク人 将校クリステンセンSS中尉(SS-Ostuf. Christensen)[ 10] 。ベルリン市街戦でクリステンセンSS中尉は「ノルトラント」師団第24SS装甲擲弾兵連隊「ダンマルク」 第16中隊の残余とヒトラーユーゲント の貧弱な1個中隊から成る「クリステンセン」戦闘団 (Kampfgruppe Christensen)を指揮していた[ 13] 。
^ 特筆すべきことに、フネは自身のベルリン市街戦の回顧録 « A Berlin Jusqu'au Bout » の中で、騎士鉄十字章 受章に関して何も言及していない[ 14] 。
^ 再検証の結果、2012年度改訂版(第6版)でフランソワ・アポロ はErnst-Günther Krätschmerの著書 « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS » から氏名・項目(紹介記事)が完全に削除され、騎士鉄十字章受章者として扱われなくなったが、アンリ・フネ とヴィルヘルム・ヴェーバー の氏名・項目は同書の本文中に残っている[ 11] 。
^ ジャン・マラルディエの階級を「曹長 」(Oberscharführer)としている文献もあるが、実際の階級は「連隊付上級士官候補生」(Standarten-OberJunker)であった[ 21] 。
^ 文献によってフランソワ・ド・ラニュリアン の所属部隊は戦術学校や第1中隊とされているが、実際には第3中隊の分隊長 としてベルリン市街戦 に参加していた(所属中隊に関する情報が錯綜している理由として、市街戦 の混戦の中では兵士が一時的に他の部隊に所属することもあり得たことが推測されている)[ 22] 。
^ 第二次世界大戦 期のフランス のジャーナリスト ・対独協力者 で、1945年4月28日にベルリン市街戦 の戦闘に巻き込まれて死亡したジャン・フォントノア (Jean Fontenoy )とは別人(ジャン・フォントノアは独ソ戦 の間にドイツ陸軍 反共フランス義勇軍団 (LVF )の宣伝 部隊に所属していたこともあったが、武装親衛隊 には所属していない)[ 24] 。
^ モーリス・マンフレディSS義勇伍長に関する記述は、文献・資料によって「1945年2月下旬~3月のポメラニア 戦線で行方不明 」説と「ポメラニア戦線から生還して1945年4月末のベルリン市街戦に参加」説に分かれている[ 25] 。
^ 高齢(1873年 1月21日 生まれ、当時72歳)のジャン・ド・マヨール・ド・リュペ 司祭は前線勤務が不可能であり、1944年秋から終戦に至るまで主にヴィルトフレッケン演習場 に留まっていた[ 27] 。
^ アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落 1945』 (白水社、2004年)p517。ただし、ビーヴァーの著書以外の文献にはフネがベルリン市街戦で単独で敵戦車5輌を撃破したとする記述が無い。
^ フランソワ・ド・ラニュリアン SS義勇伍長がベルリン市街戦 中に撃破した3輌目の赤軍戦車はIS-2(スターリン重戦車) (4月29日、大隊本部と第3中隊が陣取る建物に接近した敵戦車)[ 22] 。
^ フランスSS突撃大隊第2中隊の兵士ジャック・ロンジエ武装二等兵は、ベルリン市街戦に参加した武装親衛隊フランス人義勇兵の中で最初に赤軍戦車を撃破した人物[ 43] 。
^ Heinz Ertel / Richard Schulze-Kossens « Europäisch Freiwillige im Bild » (NATION EUROPA VERLAG, 2000)p244上部に記載されている写真(三色旗の盾章を左袖に着用した武装親衛隊の外国人義勇兵数名が談笑している写真)は
「
Französiche Freiwillige verteidigen zuletzt Berlin im Mai 1945 / French volunteers defended Berlin to the very end in May 1945 (1945年5月、最後までベルリンを守ったフランス人 義勇兵たち)
」
と解説されているが、この写真は1943年末~1944年初旬のウクライナ ・チェルカースィ 戦線(コルスン包囲戦 )におけるSS突撃旅団「ヴァロニェン」 のワロン人 義勇兵を撮影した写真である。
出典
^ Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p407
^ a b c Forbes, p465
^ Hans Werner Neulen « An deutscher Seite : Internationale Freiwillige von Wehrmacht und Waffen-SS » (Universitas Verlag, München, 1985)p112
^ Ernst-Günther Krätschmer « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »
NATION EUROPA VERLAG, 2003.※ 第5版 p927
Edition Zeitgeschichte, 2012.※ 第6版 p782
^ a b Forbes, pp.274-275.
^ Jean Mabire « Mourir à Berlin » (réédition : Grancher, 1995)p38脚注
^ Ernst-Günther Krätschmer « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »
NATION EUROPA VERLAG, 2003.※ 第5版 p926
Edition Zeitgeschichte, 2012.※ 第6版 p781
^ Forbes, p400
^ アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) 『ベルリン陥落 1945』 (白水社、2004年)p516
^ a b c d e f Forbes, p448
^ a b Ernst-Günther Krätschmer, « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS » 初版~第5版:pp.912-934. / 第6版(2012年度改訂版):pp.771-783.
^ 渡部義之編 『【歴史群像】W.W.Ⅱ 欧州戦史シリーズVol.18 武装SS全史Ⅱ[膨張・壊滅編]』 (学習研究社、2002年)p146
^ Wilhelm Tieke « BETWEEN THE ODER AND THE ELBE : The Battle for Berlin 1945 » (J.J. Fedorowicz, 2013)p206
^ a b Forbes, p449
^ Forbes, p446
^ ヴィル・フェイ(著), Will Fey(原著), 梅本弘(翻訳) 『SS戦車隊・下』 (大日本絵画、1994年)p282
^ a b c Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Sous-Officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : Eugène VAULOT "
^ a b それぞれの氏名・階級はGrégory Bouysseの著書
« Waffen-SS Français volume 1 : officiers » (lulu, 2011)
« Waffen-SS Français volume 2 » (lulu, 2011)
« Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine » (lulu, 2012)
を参照。
^ « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés 1943-1944 : Sous-officiers : Guy LACOMBE "
^ a b c Forbes, p409
^ « Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine » 、"Addenda « Waffen-SS Français volume 2 » : Ex-LVF : Jean MALARDIER "
^ a b « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Sous-officiers : François De LANNURIEN "
^ Forbes, Introduction ⅶ 参照
^ « Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine » 、"Chapitre I : LVF / 638ème Régiment d'Infanterie de la Wehrmacht : Officiers : Jean FONTENOY "
^ « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Annexes I : Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue): Sturmbrigade : Maurice MANFREDI "
^ ビーヴァー、p440
^ « Waffen-SS Français volume 1 : officiers » 、"Officiers issus de la LVF : Jean De MAYOL De LUPÉ "
^ a b c d e f g h i j Tony Le Tissier « SS-Charlemagne : The 33rd Waffen-Grenadier Division of the SS » (Pen & Sword, 2010)p157
^ a b « Waffen-SS Français volume 1 : officiers » 、"Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » Wilhelm WEBER "
^ Jean Mabire « Mourir à Berlin » (réédition : Grancher, 1995)p262脚注
^ Krätschmer, p930
^ a b « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Sous-Officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : François APPOLOT "
^ a b ビーヴァー、p517
^ Forbes, p453
^ a b c « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Serge PROTOPOPOFF "
^ « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés 1943-1944 : Sous-officiers : Jules BOUCAUD "
^ a b « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Soldats & Caporaux : CLAUDE "
^ a b « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Sous-officiers : Roger ALBERT-BRUNET "
^ a b c « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Soldats & Caporaux : Audry "
^ Forbes, p442
^ Forbes, p416
^ « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Sous-officiers : Pierre ROSTAING "
^ a b « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Annexes I : Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue): Origine inconnue : Jacques RONZIER "
^ a b c Forbes, p413
^ « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Sous-officiers : Bernard FODÉ "
^ « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Sous-officiers : Jean-François LAPLAUD "
^ a b « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Annexes I : Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue): Origine inconnue : BLAES "
^ a b « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Annexes I : Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue): Origine inconnue : Paul AUBIN "
^ a b « Waffen-SS Français volume 1 : officiers » 、"Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » Hans-Joachim von WALLENRODT "
^ Jean Mabire « Mourir à Berlin » (réédition : Grancher, 1995)p271
^ « Waffen-SS Français volume 1 : officiers » 、"Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » BLOCK "
^ « Waffen-SS Français volume 1 : officiers » 、"Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » : Quelques allemands non-officiers : Rudolf ROSENKRANZ "
^ a b Forbes, p423
^ a b « Waffen-SS Français volume 1 : officiers » 、"Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » : Quelques allemands non-officiers : FINK "
^ Forbes, p463
^ Forbes, p217
^ « Waffen-SS Français volume 1 : officiers » 、"Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » : Quelques allemands non-officiers : KLEIN "
^ « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Sous-officiers : Roland VERFAILLIE "
^ a b « Waffen-SS Français volume 2 » 、"Aspirants, sous-officiers d'origine inconnue : Sous-officiers : Claude CAPARD "
^ Forbes, p464
^ a b Forbes, p401
^ Forbes, p434
^ Georges Bernage « BERLIN 1945 - L'agonie du Reich » (HEIMDAL, 2010)p125
^ Forbes, p441
^ Forbes, p439
^ Richard Landwehr, Jean-Louis Roba, Ray Merriam « THE “WALLONIEN”: The History of the 5th SS-Sturmbrigade and 28th SS Volunteer Panzergrenadier Division » (WEAPONS AND WARFARE Publications & SIEGRUNEN Magazine, 1992)p15
文献
フランスSS突撃大隊の将兵が著した回顧録
フランス語
Henri Fenet « Die letzte Runde : Franzosen kämpfen um Berlin » (Unofficial Manuscripts ; Typescript, 1952)
Henri Fenet « A Berlin Jusqu'au Bout » (« Historia » #32 掲載)
Pierre Rostaing « Le prix d'un serment : Le soldat français le plus décoré de l'armée allemande »
Jean Malardier « Combats pour l'Honneur : Bataillon d'assaut Charlemagne : 24 avril - 2 mai 1945 : mémento, souvenirs et réflexions d'un ancien Waffen-SS de la division Charlemagne... » (Éditions de l'Homme Libre, 2007)ISBN 978-2-9121045-3-3
François de Lannurien « Le sublime et la mort » (Éditions de l'Homme Libre, 2009)ISBN 978-2-912104-72-4
Louis Levast « Le soleil se couchait à l'est » (Éditions de l'Homme Libre, 2008)
フランスSS突撃大隊に関する文献
英語
Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » U.K. : Helion & Company, 2006. ISBN 1-874622-68-X
Richard Landwehr « French Volunteers of the Waffen-SS » United States of America : Siegrunen Publications / Merriam Press, 2006. ISBN 1-57638-275-3
Tony Le Tissier « SS-Charlemagne : The 33rd Waffen-Grenadier Division of the SS » Great Britain : Pen & Sword, 2010. ISBN 978-1-84884-231-1
Wilhelm Tieke « BETWEEN THE ODER AND THE ELBE : The Battle for Berlin 1945 » Canada : J.J. Fedorowicz, 2013. ISBN 978-1-927332-03-0
ドイツ語
Ernst-Günther Krätschmer « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »
Hans Werner Neulen « An deutscher Seite : Internationale Freiwillige von Wehrmacht und Waffen-SS » München, deutschland : Universitas Verlag, 1985. ISBN 3-8004-1069-9
フランス語
イタリア語
Massimiliano Afiero « Ritterkreuz » anno 2 numero 11 - Settembre 2010
日本語
関連項目