ピン・チュンハワンピン・チュンハワン(タイ語: ผิน ชุณหะวัณ; RTGS: Phin Chunhawan、1891年(仏暦2434年)10月14日 - 1973年(仏暦2516年)1月26日)は、タイの軍人、政治家。陸軍元帥。1947年のタイ・クーデターで中心的役割を果たし、1951年の静かなるクーデター以降は政界に進出、プレーク・ピブーンソンクラーム政権末期に副首相、副国防相、農業相を担当するとともに、パオ・シーヤーノンと「ソーイ ・ラーチャクルー」(ピン・パオ派)と呼ばれる派閥を形成し、軍、政治、経済面で権勢をふるったが、政敵サリット・タナラットのクーデターで失脚した。子は第23代首相チャートチャーイ・チュンハワン。 生涯サムットソンクラーム県バーンコンティー郡出身。両親はいずれも華僑で、父で医師の開は潮汕(汕頭市澄海区東里鎮とも[1])、母の林風(タイ語名:プラブ・チュンハワン)は汕頭出身である[2]。9歳からタムボン・バーンノックにあるクウェークワット・ポーナーム寺院で初等教育を受けたのち、11歳から3年間出家。還俗後、マハラム・パラム寺院とボウォニウェート寺院でそれぞれ中等教育を受ける。 16歳のとき、ラーチャブリー県の第4師団下士官教導隊に入隊し、1910年に優秀な成績で修了、王立陸軍士官学校予科を経てラーチャブリー県駐屯の第4歩兵連隊に勤務、少尉任官。以降、同部隊にて新兵訓練を5年間担当する。第4歩兵師団、第1軍管区などで参謀長を務め、37歳で陸軍参謀学校に通った後、官位「ルワン」および欽錫名「チャムナン・ユッタサート(戦術の意味)」を与えられるが、のちに放棄している。1929年に少佐に昇進。 1933年、ボーウォーラデートの反乱では鎮圧混成師団参謀長、第3軍管区参謀長。のち同副司令官、司令官。1937年、大佐。 1940年11月、イーサーン軍(司令官:ルアン・クリアンサックピチット中将)副司令官として対仏国境紛争を指揮。 1941年、少将昇進。同年5月、パヤップ軍(日本は「外征軍」と呼称)隷下の第3師団長として、イギリス領ビルマのシャン州の侵攻に参加、42年8月、シャン州軍知事。1943年、パヤップ軍副司令官を務めた。1944年、陸軍司令部参謀部員。同年末、セーニー・プラーモート政権下での戦争犯罪人法成立のあおりを受け中将で退役[3]。 1947年、陸軍副司令官。同年、カート・カートソンクラーム大佐、サリット・タナラット大佐らと「政変団」(カナ・ターハン)を組織し、11月8日深夜~9日未明、タイ・クーデターでピプーンを復権させる。クーデター成功後、彼はラジオで報道機関に向けて、食料品の不足と物価の高騰を憂慮している事、「わが軍は、国家が腐敗した文民政治でさらに腐敗しないため、国民の利益のために行動したのだ」と涙ながらに語った[4]。また、17日にはラーマ8世の死は暗殺であり、侍従ら5名を逮捕した旨を発表したが、詳細に関しては言及を避けた[5]。 クーデター後、陸軍司令官に昇進。1950年には陸軍大将となった。 また1951年には娘婿にして義兄弟である警察長官パオ・シーヤーノンとともに「静かなるクーデター」を起こし、副首相として事実上権力を掌握した。彼らは、バンコク市内のパホンヨーティン通りにあるチュンハワン家の場所から「ソーイ ・ラーチャクルー」(ピン・パオ派) と呼ばれ、警察権力を利用して麻薬取締を建前に大がかりなアヘン・麻薬取引を行って資金源とするとともに、バンコク銀行やアユッタヤー銀行の経営陣に腹心の人間を登用させて手中に収めたり、酒、砂糖などの業種にも手を出すなど[6]、その活動を経済圏にまで広げた[7]。 また、米国からの軍事援助を率先して推進した[8] が、経済への腐心のあまり軍内部での支持を失い[9]、1957年3月、農業大臣に就任。 同年、イーサーンで最悪の干ばつが発生した。バンコクへは東北からの大規模な移住者が押し寄せ、社会問題につながったが、政府当局は楽観視し[10]、農業大臣のピンも「都市への北東部の移住も、彼らがカエルやトカゲを食している事も日常茶飯事であり、心配することは何もない」と発言した[11]。一方、バンコクのフワランポーン駅には、毎日多くの難民が到着しており、学生や修道士は緊急支援ステーションを設置する必要があった[12]。 8月10日、新しく副農相に就任したチャルームキアット・ワッタナーンクーン空軍元帥をヘリコプターでイーサーン地域の調査に派遣したが失敗。同じく航空機による2回目の調査を公開したが、土地のすべては満足な状態にあり、イーサーンに危機はなかったとの姿勢を崩さなかった。この問題を解決するための最後の試みとして、ピブーン政府は5300万バーツを割り当てた。これは、イサーンの53人の代表者の間で均等に分割された[13]。 また、農業大臣就任前からタイ林産公社(FIO、1956年設立[14])の設立に関わっていたが、イーサーンでの杜撰な対応への批判が冷めやらぬ中で、既存の民間林業業者に圧力を加えていたこと、ターク県のピン川に建設中のプーミポン・ダムの水没地区の木材伐採を独占するため、同地区の樹木を伐採する許可の早期申請を提出したこと、それを拒んだ王室林野局局長のティエム・ホムリットを更迭の上冤罪で告発したこと、などをティエム自身にマスコミを通じて暴露される[15][16]。 同年9月、政敵のサリット・タナラットが権力を掌握。サリット政権はピン・パオ派を徹底攻撃し、一族が数百万ドルの公的資金を横領し、スイスの銀行口座にそれらを隠ぺいしていたと告発した[17]。パオはスイスに逃亡し、そこで死去した。 失脚以降は政界を去って自宅で隠居生活を送り、1973年、プラモンクックラオ病院で死去した。子のチャートチャーイは軍人から外交官に転身させられ、以降サリットの死去後10年近くたった1972年までタイに帰国できなかった。 年譜
家族ウィバンラックス・チュンハワンとの間に5人の子供を儲けたが死別し、のちスパプン・チュンハワンと再婚、1人の子供を儲けた。チャートチャーイが政界進出すると親族や娘婿らも続き、ピン・パオ派を再形成した。
脚注
外部リンク
参考文献
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