ローマの内乱時代の末期、ユリウス・カエサルの死後、オクタウィアヌスとマルクス・アントニウスは連合して、カエサルの暗殺者マルクス・ユニウス・ブルートゥスとガイウス・カッシウス・ロンギヌスをピリッポイの西に破った(フィリッピの戦い、紀元前42年)。戦後、勝者二人は何人かの退役兵をピリッポイに入植させ、戦勝を記念して市をコローニア・ウィクトリクス・ピリッペンシウム(フィリッペンシウム)(Colonia Victrix Philippensium)と改称した。紀元前30年にオクタウィアヌスはさらに市の再建を進め、イタリアから多くの退役兵をピリッポスに入植させた。市は彼の氏族名ユリアにちなんでコローニア・ユリア・ピリッピネンシス(フィリッピネンシス)(Colonia Iulia Philippensis)と改称され、さらに紀元前27年、オクタウィアヌスが元老院からアウグストゥスの称号を贈られた後、コローニア・アウグスタ・ユリア・ピリッピネンシス(フィリッピネンシス)(Colonia Augusta Iulia Philippensis)と改称された。
6世紀の終わり、スラヴ人の侵略によりマケドニアの農業経営は崩壊し、またおそらくは547年の疫病大流行(en:Plague of Justinian)の影響もあって、ピリッポイはかなり弱体化していた。619年頃、地震によって都市は完全に破壊され、その打撃から二度と復興することはなかった。7世紀にもある程度の都市活動は行われていたが、その規模はもはや村落以上のものを出なかった。
16世紀の旅行者たちによる簡単な言及がなされた後、この都市についての最初の考古学的記述は1856年にペローによってなされ、続いてウージーとドーム(L. Heuzey and H. Daumet)による『マケドニアの考古学調査』(Mission archéologique de Macédoine)が現れた。都市の発掘調査は1914年の夏に初めて行われ、すぐに第一次世界大戦によって中断された。フランスの高等教育機関であるエコル・フランセーズ・ダテーネ(en:École française d'Athènes)が行った発掘は、1920年に再開され、1937年まで行われた。この調査によって、ギリシア時代の円形劇場、フォルム、バシリカAおよびB、複数の公衆浴場、市壁が発掘された。第二次世界大戦後、発掘調査は再開され、1958年から1978年にかけて、考古学学会(Société Archéologique)、Service archéologique ついでテッサロニキ大学により、主教区画、八角形の聖堂、大規模な私邸、博物館に近い知られていなかった聖堂、市の東にある墓地のなかの二つの聖堂が発掘された。
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