パービス・ショート
パービス・ショート(Purvis Short, 1957年7月2日 - )は、アメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手。身長201cm、体重95kg。ポジションはスモールフォワード。 経歴ミシシッピ州ハッティズバーグ出身。高校時代に州選手権を制覇し、進学したジャクソン州立大学では通算得点の学校記録を樹立した。1978年には平均29.5得点で全米2位となり、カンファレンス年間最優秀選手に選ばれた。 1978年、NBAドラフト全体5位でゴールデンステート・ウォリアーズに入団した(直後の6位でラリー・バードが指名された)。キャリア初期はシックスマンとしてプレーした。5年目の1982-83シーズンから先発に昇格し、シーズン途中で移籍したワールド・B・フリーに代ってジョー・バリー・キャロルとともにチームの中心となった。翌1983-84シーズンに初めてチーム得点王となり、サンアントニオ・スパーズ戦では57得点を記録した。 1984年にキャロルもチームを去り、単独エースとなったショートは1984-85シーズンにリーグ4位の平均28.0得点[1]を叩き出した。1984年11月17日のニュージャージー・ネッツ戦では自己最高を更新する59得点[1]をあげた。この試合を含め、40得点以上を8度記録した。オールスター選出は逃したものの評価は急上昇し、オフに争奪戦が勃発したが最終的にウォリアーズと再契約した。 翌1985-86シーズンもリーグ5位の平均25.5得点を記録したが、膝の故障でシーズン終盤を欠場した。1986-87シーズンは手術のため34試合の出場で平均18.3得点に留まった。この年ウォリアーズは42勝をあげ、ショートの入団後初となるプレーオフ進出を果たした(カンファレンス準決勝でロサンゼルス・レイカーズに敗退)。シーズン終了後ヒューストン・ロケッツにトレードされた。ウォリアーズの9シーズンで通算11,894得点(球団史上9位)710スティール(同6位)を記録した。 以降は怪我の影響でかつてのパフォーマンスを取り戻すことなく、ロケッツとニュージャージー・ネッツで計3シーズンを過ごした後、1990年にNBAを去った。1991年イスラエルのプロリーグと契約して1シーズンプレーし、1992年に現役引退した。 NBAでの成績は、842試合の出場で通算14,607得点3,625リバウンド(平均17.3得点4.3リバウンド)であった。 ショートは1987年から1990年までNBA選手組合の副会長を務めた。引退後はNBPAに就職し、1999年に選手プログラム部門ディレクターに就任した。 個人成績レギュラーシーズン
プレーオフ
脚注関連項目外部リンク |