パトリック・カーペンティア
パトリック・カーペンティア(Patrick Carpentier、1971年8月13日 - )は、カナダの元レーシングドライバー。チャンプカー・ワールド・シリーズおよびインディカー・シリーズでの活躍で知られる。2009年、彼はトミー・ボールドウィン・レーシングの36番車をマイク・スキナーとシェアし、またマイケル・ウォルトリップの55番車、トヨタ・カムリをロードコースでドライブしてNASCARスプリントカップシリーズに参戦した[1]。2010年はラティチュード43モータースポーツから数戦に参加した。 オープンホイール経歴2005年、カーペンティアはレッドブルがスポンサーするエディ・チーバーのチームからIRLに参戦した。その以前はチャンプカー・ワールド・シリーズにほぼ10年間、ベッテンハウゼン・レーシングからルーキーの頃より参加していた。しかしながらチームはその後ジェリー・フォーサイスによって所有されることとなった。その経歴の初期に彼は怪我のためレースを欠場することが多く、その内のいくつかはレース外での負傷であった。 彼の最初のチャンプカーにおける勝利は2001年のミシガンであった。2002年にはシリーズランキング3位となる。期待外れであった2003年シーズン、彼はランキング5位であった(チームメイトのポール・トレーシーがタイトルを獲得した)。このことで彼のチーム内での立場は弱くなり、間もなく2004年にはチームを放出された。その後カナダにおけるマーケティングのため、チームは彼を3台目の車で復帰させた(チームオーナーのジェリー・フォーサイスはシリーズ全体の共同オーナーでもあった)。 2004年にはポール・トレーシーよりも上位でシーズンを終えたものの、カーペンティアはチームを離れ、IRL インディカー・シリーズに参戦するエディ・チーバーのチーバー・レーシングに加入した。オーバルトラックでの好成績のため、彼は活躍が期待された(チャンプカーでは殆ど行われなくなっていたオーバルコースでのレースがインディカー・シリーズでは大半であった)。しかしながらトヨタエンジンの低性能により、成功することはできなかった。 チームはシーズン後、レッドブルの支援を失った。スポンサーの無くなったチームは活動体制を大幅に縮小し、カーペンティアはその年、マシンをドライブすること無くチームを去ることとなった。 チャンプカーでの8年で、カーペンティアはトップ10フィニッシュを74回、表彰台には22回上った。IRLでの1年で彼は11回、トップ10フィニッシュした。 ストックカー経歴カーペンティアは2006年、カユーガ・スピードウェイでのCASCARスーパーシリーズのイベントに参戦した。デイヴ・ジェイコブス・レーシングから参戦、21位でスタートし6位に入賞した。2007年はグランダム・シリーズにサマックス・モータースポーツからミルカ・デュノーのチームメイトとして参戦した。その後NASCARに参戦するためサマックスを離れた。 カーペンティアは2007年8月4日、ジル・ヴィルヌーヴ・サーキットでNASCARブッシュ・シリーズへのデビューを果たした。ポールポジションを獲得した彼はレースを2位で終えた[2]。NASCARネクステル・カップへのデビューは2007年8月12日のワトキンス・グレンで、ジレット・エバーナム・モータースポーツの10番車のダッジで、スコット・リグスに代わって40位からスタートした。レースの中盤では7ラップに渡ってトップを走行し、最終的に20位でフィニッシュした。2007年10月に、翌2008年シーズンは10番車をドライブしてフル参戦することが発表された。 2008年2月14日、カーペンティアは2008年のディトナ500でのゲータレード・デュエルで予選通過にトライした。彼は1日の大半をトップ10で走行した。レースの終盤で右フロントタイヤがバーストし、バックストレッチウォールに衝突する。結局は予選落ちすることとなった。 2008年6月27日、ニューハンプシャー・モーター・スピードウェイでのレノックス・インダストリアル・ツールズ301でカーペンティアはスプリントカップ・シリーズでの初のポールポジションを獲得した。このポールポジションはNASCARのトップカテゴリーにおける外国出身ドライバーが獲得したポールとしては、1953年6月のラングホーン・スピードウェイにおけるロイド・ショー(トロント出身)以来の物であった[3]。 2008年7月5日、コークゼロ400においてカーペンティアは14位でフィニッシュ、彼のベストキャリアであった。 2008年8月30日、カーペンティアはジレット・エバーナム・モータースポーツを離れ、2009年シーズンの所属は未定であることを発表した[4]。その4日前にチームはカーペンティアの将来が不確定であるとして、翌シーズンはリード・ソレンソンを起用することを発表していた。10月7日にカーペンティアはチームを離れた。 2009年6月9日、マイケル・ウォルトリップ・レーシングは2009年の二つのイベント、6月21日のインフィニオンおよび8月9日のワトキンス・グレンで、マイケル・ウォルトリップに代わって55番車をカーペンティアがドライブすると発表した[5]。その後、彼はトミー・ボールドウィン・レーシングでマイク・スキナーがトラックシリーズに出場するため欠場となるイベントで代役としてドライブした。 2010年、カーペンティアはラティチュード43モータースポーツから数戦に参加した。2011年はオープンホイールに復帰し、2011年のインディ500にドラゴン・レーシングから参戦、スコット・スピードがバンプ・デイで予選通過できなかった後に予選に出場したが、通過することはできなかった。ストックカーでは、フランク・ストッダードのチームからスプリントカップの数戦に参加した。6月7日、カーペンティアはトロント・サン紙でジル・ヴィルヌーヴ・サーキットで行われるNAPAオートパーツ200をもって引退することを発表した。同レースにはパストラナ・ウォルトリップ・レーシングから参戦した。 引退2011年8月20日、カーペンティアはモントリオールで行われるネイションワイドシリーズの前に引退を発表した。レースでは4位を走行中にスティーヴン・ウォレスと接触してリタイアとなった。観衆は彼に対してスタンディング・オベーションを行った[6]。 引退にもかかわらず、カーペンティアは2012年1月に、児童チャリティ募金を目的としてモントリオールで行われるネイションワイド・シリーズへの参加する意欲があると述べた[7]。 記録アメリカン・オープンホイール(key) (太字はポールポジション、斜体はファステストラップ) インディ・ライツ
チャンプカー
インディカー
インディ500
オープンホイールA1グランプリ
参照
外部リンク
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