フローリー男爵ハワード・ウォルター・フローリー (Howard Walter Florey , Baron Florey、1898年 9月24日 - 1968年 2月21日 )はペニシリン の抽出によりエルンスト・ボリス・チェーン 、アレクサンダー・フレミング とともに1945年度のノーベル生理学・医学賞 を受賞した生理学者である。
生涯
南オーストラリア州 のアデレード で5人兄弟の末っ子として生まれた。セントピーターズ・カレッジでは優秀な成績でアデレード大学 へ進学し、1917年から1921年まで学んだ。この大学で、彼は後の妻で共同研究者になるエセル・リード (英語版 ) と出会った。
奨学生としてオックスフォード大学 のモードリン・コレッジ で研究を行い、ここで学士号、修士号を取得した。そして1926年にケンブリッジ大学 のゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ のフェローとなり、1年後に博士号を取得した。アメリカでの研究生活が終わると、彼は1931年にシェフィールド大学 の生理学の教授になった。1935年に再びオックスフォードに戻り、リンカーン・カレッジ (英語版 ) の研究長となった。1938年、エルンスト・ボリス・チェーン、ノーマン・ヒートリー (英語版 ) とともにアレクサンダー・フレミングの論文を読み、Penicillium chrysogenum (英語版 ) の抗菌活性について議論した。彼らの研究チームはカビ 由来の生成物質を大規模に探索し、抗菌活性のある成分を抽出した。そして第二次世界大戦 中の1945年にペニシリンの工業生産に成功した。しかしフローリーはこの発見は科学的なメリットしかないと考えており、以下のように語っている。
人々はしばしば、我々は人類の苦しみを救うためにペニシリンを研究したと考えているが、我々の心には人々の苦しみを救うという気持ちはなかった。あくまでも科学的な興味からであり、医学的に見て満足いく結果が得られた。しかしこれは我々が研究を始めた動機ではない。
彼はまた、公衆衛生の向上による人口増加に関心を持っており、避妊 の忠実な信者であった。1962年、彼はオックスフォード大学のクイーンズ・カレッジ (英語版 ) の総長となり、総長在任中に彼の功績を讃えてフローリー・ビル (英語版 ) と呼ばれる宿泊棟が作られた。この建物はイギリスの建築家であるジェームズ・スターリング によって設計された。
フローリーは1944年にナイト に叙され[ 1] 、1965年には一代貴族 として男爵 位を授けられ「オーストラリアにおけるアデレードとカウンティ・オヴ・オックスフォード におけるマーストン (英語版 ) のフローリー男爵 (Baron Florey , of Adelaide in the Commonwealth
of Australia and of Marston in the County of Oxford )」となった[ 2] 。これはナイトに叙せられた発見者のフレミングよりも大きな名誉となった。同年にはメリット勲章 を受章している[ 3] 。
フローリーは1941年に王立協会 のフェローとなり[ 4] 、1960年から1965年まで王立協会の会長を務めた[ 4] 。1966年に妻のエセルを亡くした後は、長年の共同研究者であり助手であったマーガレット・ジェニングス (英語版 ) と1967年に再婚した。1965年から68年までオーストラリア国立大学 の総長を務め、1968年にオックスフォード で心臓発作 で死去した。
フローリーはオーストラリアの科学、医学界において最大の科学者だと目されている。オーストラリアで最長在任期間の首相であるロバート・メンジーズ は次のように語っている。
世界の幸福という面で考えると、フローリーはオーストラリア史上最も偉大な人物である。
フローリーの肖像は、長年50オーストラリアドル 紙幣に使われていた。またキャンベラ 郊外には彼の名前にちなんだ街 がある。さらにメルボルン大学 のハワード・フローリー研究所やアデレード大学医学部の最も大きな講堂も彼の名前を取っている。
2004年、テレビの特別番組で最も偉大なオーストラリア人に選ばれた。
受賞歴
出典
外部リンク